企画展「石本正 絵を描くということ」作品解説

 

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【1】

はじめに

「大胆な人間性の追求」
「石本正の女体/その情念の見事さ」
「意表つく裸の舞妓」

1970(昭和45)年に開催された個展「石本正 人物画展」のとき、このような見出しで多くの新聞社がこの展覧会のことを報じました。会場に展示されたのは、舞妓や裸婦をはじめとする女性像のみ。それまで女性像も含めながら花や鳥・風景など様々なモチーフを描いてきた石本が、はじめて女性だけにテーマをしぼって作品を発表した展覧会でした。

ここに至るまでの30代後半頃から40代にかけては、その後の画業につながる《変化と深化の時代》ともいえる重要な時期で、特に大きな変化が見られたのが女性像でした。それらは、まるで土から生れ出たような荒々しい表現から、次第に女性の体温やにおい、そして心の内までも感じさせるものへと変わっていきます。こうした《人体表現のリアリティ》は、画壇に石本正の存在を強く印象付けるものとなっていきました。

こうした女性像が並んだ個展は、圧倒的な存在感をもって多くの人の心をとらえ、これがきっかけとなって二つの賞を受賞することになります。しかしその後の後半生では一転、すべての賞を固辞するようになりました。ある意味で、この時の受賞が彼の画業におけるひとつの節目のようなかたちとなりました。
はじめに、50歳以降の後半生にむけて大きな土台となった《変化と深化の時代》の石本正の女性像をご紹介します。

 

 

 

 
【2】
「三人の舞妓」
1964(昭和39)年/2000(平成12)年補修加筆  本画

三人の舞妓

彼はあこがれの仏像のイメージから様々なヒントを得て、舞妓を描きました。
たとえば、平泉(岩手県)・中尊寺にある「一字金輪座像」。この肉色の彩色が施された顔と、白粉を塗ったような白っぽい肌に妖艶な魅力を感じた石本は、それを舞妓に置き換えて表現しようと試みました。また、大阪・観心寺にある「如意輪観音像」を見ていたときに、その美しさは伏し目がちの表情によるものと気づき、それを舞妓に取り入れました。

 

 

 

 

【3】
「横臥舞妓」
1967(昭和42)年 本画

横臥舞妓

日本画に描かれる舞妓といえば、白粉(おしろい)で化粧して美しく着飾った姿をはんなりと描く、どこか “きれいごと” の絵画が多い中で、石本はその舞妓の装飾性の象徴である着物を取り払い、日本髪と簪(かんざし)、白粉のみを残した裸の姿を描きました。普段は着物で隠れている白粉と素肌の境界は、女としての色香を一層強く漂わせ、重量感さえ感じる身体の表現は、現実の女性を見るよりもリアルに血の通った肉体を思わせます。

 

 

 

 
【4】

第1章 美の鬼 石本正 1970―1980年代

 

人との付き合いが増えて、絵を描く時間が制限されるのは困る。
感動を得て、絵を描くことが僕の人生だ。

これは、すべての賞を辞退するようになった理由として石本正が語っていたことです。この言葉の通り、絵に関することのみ手間も時間も惜しまない貪欲さで、その後の人生のすべてをかけました。

女の美の追求のためにほぼ毎週手を休める間もないほど裸婦デッサンをし、また若い頃からあこがれ続けた《ロマネスク美術※》から本物の感動を得るために何度も「ヨーロッパ美術の旅」を決行。そして毎日朝早くからアトリエに入り、対象から得た感動や真の美に迫りたい一心で絵に向かいました。彼にとって、絵に関わること以外にかける時間は、ただ煩わしいものでしかありませんでした。

こうして美と感動に真っ向から向き合って描かれた作品は、より深い精神性をたたえるものになっていきます。特に女性像は、以前の40代のころの作品に比べると背も手足もすらりと長く、目の前に存在しながらどこか非現実的で神秘的な独特の美しさになりました。
親交のあった哲学者・梅原猛氏(1925-2019)は、地位や名声にこだわることもなく、ただひたすら美を求めて描き続ける彼のことを、《美の鬼》《美の奇人》という言葉で表しています。

※《ロマネスク美術》11世紀頃から12世紀にかけてヨーロッパに栄えた美術様式。

 

 

 

 

【5】
「鶏頭」
1974(昭和49)年頃  本画

鶏頭

本作は、新たに発足した創画会の第1回展に初めて花の大作を発表したのと同時期に描かれた作品。写生の中に精神性を込める東洋画の伝統を自分なりに解釈したものだといいます。単色の背景に二本の鶏頭が平面的かつ象徴的に配置された画面構成は、その後の裸婦や花の作品との共通点が見られます。

 

 

 

 

【6】
「雪景」
1974(昭和49)年  本画

雪景

イタリアに訪問した時、シエナ市庁舎(パラッツォ・プブリコ)の壁に描かれた『シエナ将軍グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬像』(シモーネ・マルティーニ作(1284頃~1344))を見てから、白と群青の対比のえも言われぬ美しさを、日本画の絵具で描いてみたいと思うようになりました。

「濃紺の空にそびえる城を背景に、フィレンツェとの戦いから凱旋したシエナのグイドリッチオ将軍の雄姿。平面的な画面処理は、日本画の障壁画を思わせ、色つやのないザラザラしたフレスコ画の材質感は、まさに日本画のそれだ。わたしは異国にいることを忘れて、この大フレスコ画に見入られてしまった。」
(石本正/京都新聞(昭和45年2月27日)「名作とわたし⑦・グイドリッチオ将軍の騎馬像」より抜粋)

この作品は、そのイメージと新潟県の妙高高原の春先の景色とを重ねて描いています。

 

 

 

 

【7】

画家の言葉

私はトコトンまで美しいものに賭けたい。美しいものの中に生きたい。どんなに見ても見飽きることのない女の肌、いくら描こうとしても対象は逃げていく。だからどこまでも追いかける。一作でいいから真の美を描きたい。描ききったと思わないからまだ捉えていないのだ。透けた肌に感動するだけでは駄目なのだ。それを描ききった時、表現しえた時に初めて、美そのものが私のものになる。

石本正「私の裸婦」
「藝術新潮」1979(昭和54)年12月号より抜粋

 

 

 

 

【8】
「秋」
1981(昭和56)年  本画

秋

この絵のモデルはとても美しい女性だったそうです。デッサンをしている時に彼女の中に興福寺の阿修羅像が見えてきて、そのイメージを重ねて本作が描かれました。興福寺の阿修羅像は石本が好きな仏像の一つで、美しい少年の姿でかたどられた像を思い浮かべながら、その美しさを女性の姿で表現しています。

 

 

 

 
【9】

「聖なるものへの純粋な憧れ」梅原猛

石本正ほど自己に忠実な芸術家を、私は知らない。彼はいっさいの妥協をしりぞけ、頑強に自己の生活を守っている。一年ごとに繰返される南ヨーロッパへの、ふた月にわたる中世美術探訪の旅をのぞけば、彼の生活は、ほぼ完全に製作三昧にあけくれている。その生活を守るために彼は、世俗の評価をかえりみないばかりか、時としては世間的な義理に欠けることがあるが、この美の鬼は、そうしたことに一向無頓着である。

彼の求めているのは、結局、聖と性。彼は一方ではなはだ艶麗な女体の画家であるが、一方では、はなはだ熱狂的な中世崇拝者でもある。聖と性とが、彼の場合は一つに溶けあっている。彼のかく裸女が異様な魅力をもって人の心を捉えるのは、彼の心にあふれている、聖なるものへの純粋なあこがれゆえではないかと私は思う。

「石本正自選画集」1980(昭和55)年より抜粋

 

 

 

 

【10】
「三人の女」
1980(昭和55)年   本画

三人の女

若い頃、イタリアのルネサンス期を代表する画家サンドロ・ボッティチェルリ(1444~1510)の『春』を画集で見て、特に画面左で踊る薄物をまとった三美神の姿に憧れました。その後、その3人の女神のイメージを重ねた作品が生涯の中で何点も描かれました。本作はそのうちのひとつ。
『春』に描かれた三美神の薄物をまとった肌には、石本がヌードを描き続けながら長年念願しつづけた肌の表現がありました。

光と影の関係ではとても捉えることのできない、微妙な色の変化をもつ薄物を通して見える素肌。彼は、自分の描く女性像をボッティチェルリの領域まで至らせたいと念じ続けました。

 

 

 

 
【11】

<学芸員の目> 石本正のデッサン・スケッチ

心に感動を与えてくれる美を自分のものにするため、描き続けていたデッサンやスケッチ。その総数は、現在分かっているだけでも13,400点以上という膨大な数にのぼります。
なかでも群を抜いて多いのが裸婦デッサンでした。身体のラインや細部、モデルがほんの一瞬見せるなんともいえない表情。本画とはまた一風違い、画家の視線と生の感動をそのまま感じることができます。

 

 

 

 

【12】

画家の言葉

ヌードを描くことにあきないのだ。観るたびに新鮮なのである。光によって、人によって、モデルのちょっとした動きによって、無限に変化する。たとえば、横たわった裸婦の乳が、片方は丸く、片方は菱形になったり、ふと乳首が着物にひっかかったり、手の甲にえくぼができたり、たえず発見があるのだ。フラ・アンジェリコが描く女たちの顔や姿勢は、大ざっぱにいえばどの作品にも大した違いはないように見える。ところが一点一点、すべて絵画として新鮮な魅力を持っている。主題を変えることによって絵が変わるのではなく、一つの主題の中に限りない変化を表すことができる。それが画家であると思う。

ヌードを描いているのが、今は面白くてならない。女性のヌードは本当に美しい。楽しくヌードを描いているとき、私は、絵描きになって本当によかったと、しみじみ思うのである。

石本正「絵を描くよろこび」
「藝術新潮」1977(昭和52)年7月号より抜粋

 

 

 

 
【13】

<学芸員の目> 感動を求めた「ヨーロッパ美術の旅」

石本が真の感動を得るために、画家としての貴重な時間と労力をついやしたもののひとつに、1969~1990年に9回に渡り行った「ヨーロッパ美術の旅」がありました。

44歳の時、ロマネスク美術のフレスコ画をイタリアで見て、彼は日本の古い絵画にも通じる表現や精神性に心打たれました。以降、この文化に直に触れることは今後の日本美術を考える上で有意義だと考え、学生や卒業生を連れてのヨーロッパ美術研修旅行を行うようになったのでした。旅の行程は、石本自身が外国語の本や地図を何百冊も取り寄せ、約5年の歳月をかけて綿密に調べ上げたことをもとに組まれていました。見学先は彼独自の審美眼によって選びぬかれたものばかりで、いわゆる「有名な美術品」を見て回る旅行とは全く異なる内容でした。

その旅の途中で描かれる風景スケッチは、あこがれの土地から多くの感動を心いっぱいに受け止める画家のよろこびにあふれています。

※フレスコ画/壁画の技法。壁に塗った漆喰が乾く前に、水で溶いた顔料で彩色する。乾くと日本画とよく似たやわらかい発色になる。

 

 

 

 

【14】

第2章 感動する心を育んでくれた故郷に感謝して  1990年代~2001年

1989(平成元)年、69歳のとき、それまで女性像を多く手掛けてきた石本が「花」だけをテーマとする個展を開催しました。発表されたのは、罌粟、鶏頭、牡丹をモチーフとする7点の作品でした。

美しい花もやがて枯れゆくという《儚い命の美しさ》に心打たれ、これ以降、女性像と等しく花の作品も頻繁に描くようになります。

時には、あこがれの音楽や小説、映画、絵画などから得た感動を、花や女性の姿に託して自由に夢を見るように描きました。彼が画家として歩み続けるなかで生涯大切にしていたのが「感動する心」でした。

80歳を手前にする頃、その画家の命ともいえる「感動する心」は、子どものころに自然豊かな故郷で自由に遊ぶ中で育まれたのだと思うようになり、それまで心を込めて描いていた作品のほとんどを故郷に贈ることを決めたのでした。
こうして故郷にできた石正美術館を、石本は「心を埋める場所」と言っていました。

このように名誉に恬淡(てんたん)としている彼は、金銭にもまた欲がない。美術商やコレクターがいくら高額でもよいといって買い求めたがる彼の作品を、彼は惜しげもなく故郷に寄付をした。その大量の作品が石正美術館誕生の基となった。彼の故郷に対する思いと、故郷の人々の石本氏に対する敬愛の念が一致したのであろう。

梅原猛「美の奇人・石本正」
「石本正 米寿記念 心で描いた日本画展」図録(2008年)より抜粋

※恬淡(てんたん)/心がやすらかで無欲なこと。あっさりしていて物事に執着しないさま。(広辞苑より)

 

 

 

 

【15】
「鶏頭」
1994(平成6)年  本画

鶏頭

石本は、各地の花火大会によく足を運びました。夜空に勢いよくドーンと打ちあがり一瞬で消えていく様子に、命の儚(はかな)さをも感じながら花火を見ていました。
本作は、その花火を見た時の感動を鶏頭の姿にかさねて描いています。右側の鶏頭は勢いのある元気な花火。左側はすこし元気のない花火なのだそうです。

 

 

 

 

【16】
「秘花」
1996(平成8)年  本画

秘花

菊をデッサンしていたら、燭台の上のろうそくが燃えている様子が浮かび、そのイメージをそのまま菊に重ねて描かれた作品。

「まるで、多くの命が燃えているように見える。年老いていき、やがて葉が散り、枯れてしまう寸前が美しい。それがいとおしくてならない。」(石本正)

 

 

 

 

【17】
「黎明」
1993(平成5)年  本画

黎明

本作は、ロマネスク建築のモデナ大聖堂(イタリア)にある石像にイメージを重ねて描かれたものです。女性の髪形は、シャルトル大聖堂の西正面、三つ編み円柱人像からヒントを得ました。
シャルトルの円柱人像はとても髪が長かったそうで、モデルに背筋を真っ直ぐにしてもらい、髪もまっすぐに描かれました。

 

 

 

 

【18】
「天王の牡丹」
1996(平成8)年  本画

天王の牡丹

京都府京田辺市天王に、明治時代から続く「無二荘牡丹園」があります。そこの牡丹は他の牡丹園のものとは違い、高い土手の上に高さ2メートル程もある牡丹がまるで林のように生えており、下からのぞきあげるようにして見なくてはなりませんでした。野生のままのような生き生きとした様子が気に入り、毎年のようにスケッチに通いました。

ある時、足繁く通ううちに親しくなった花守の辻尾仁郎氏に「僕には牡丹の花が女の人に見える。(辻尾さんは)毎日こんなきれいな女性に囲まれてうらやましい」と語ったことがありました。冗談めかしたように聞こえるこの言葉ですが、花を見ながら別のものを心に浮かべていることがよく分かるエピソードです。ただ目の前の花を描くだけでなく、想像を膨らませながら自由に絵を描くことは、彼にとって何よりも楽しいひと時でした。

 

 

 

 

【19】
「罌粟(けし)」
1998(平成10)年   本画

罌粟

【画家の言葉】

「15世紀のドイツにハンス・バルドゥング・グリーンという宗教画家がいた。彼の作品の中に、女は男を堕落させるから女に近づくなというのがある。

ある時、罌粟を見ていたら、罌粟の白い花が女に見えて、赤い花が男に見えてきた。白い花が男を堕落させて骸骨にする、そんな風に見えてきた。白い花と赤い花が、抱擁してキスをして足を絡めている。そして、男はやがて枯れていく…。」(石本正)

(「石本正 花の世界」展・図録《石正美術館発行》巻末解説より)

 

 

 

 

【20】
「蟠竜湖(ばんりゅうこ)の女」
2001(平成13)年   本画

蟠竜湖の女

ふるさとに作品を寄贈することを決め、石正美術館が建設されることが決まって以降、初めてふるさと石見をテーマにして描いた作品。子供のころに行った思い出のある益田市の蟠竜湖の風景と、石見の地に住む美しい少女が描かれています。
背景に描かれた湖は実際の風景とは違い、また本来ならこの場所から見えないはずの日本海も右上に描かれています。これは画家の心の中にある懐かしいふるさとの光景です。

 

 

 

 

【21】

おわりに

「画(え)を描くことは楽しい。生きる喜びでもある」

地位や名声を求めず、金銭にも欲を持たず、ただひたすら彼が追い求めたもの。それは心にひびく《真の美》でした。その《美》に感動する心以外のものを欲することなく、絵を描くことだけを生きる喜びとして生涯をすごしました。

足腰が弱くなってあまり外に出かけられなくなった最晩年の90代は、心の中にあふれるように浮かんでくる、これまでひたすら求めてきた感動の思い出を、自分に残された時間を惜しむように次から次へと絵にしていました。絵に対する思いは2015(平成27)年に95歳で亡くなるまで変わることなく、最後まで筆をとり続けました。

そうやって彼が描いてきた心の結晶ともいえる作品が、石正美術館には約14,000点おさめられています。
石本正の作品とともに、彼が貫いてきた絵に対する思いをすこしでも感じていただけたら幸いです。

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