企画展「画家たちの旅」作品解説

 

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第1章 石本正と旅

【1】

1.中世ヨーロッパ美術へのあこがれ

1920(大正9)年、石本正は現在の浜田市三隅町岡見(旧那賀郡岡見村)に生まれました。
少年時代、自然に恵まれたこの地で虫や魚を友として過ごしながら、絵描きにとって大切な豊かな感性と想像力が育まれました。そしてもう一つ、のちに画家を志すきっかけとなったある画集との出会いがありました。

……絵の道に進んだきっかけをよく考えてみると、中学時代におじから美術全集をもらったことかもしれない。それは、平凡社の『世界裸体美術全集』で、今でも大事にもっていて、ときどき見ては楽しんでいる。だれもが通り過ぎていく年ごろであるから、半分は興味本位のところがあってワクワクして見たものだが、半分は純粋に美しいものに憧れるという気持があった。……
石本正『自選画集』1997年(小学館)

それから20歳の時に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に進学した石本でしたが、第二次世界大戦下の学徒動員により招集され中国へと渡りました。1946年に復員してからは、京都で本格的に日本画家として制作活動を行うようになります。翌年行われた「文部省第3回日本美術展覧会」では、イタリアルネサンス期の画家・ボッティチェルリ(1445頃-1510)の《春》に着想を得た《三人の少女》が初入選し、日本画家の福田平八郎氏(1892-1974)に絶賛されました。これが、画家として初めて石本正の名が世に出た瞬間でした。
その後も、中世ヨーロッパのロマネスク美術や、日本の古い彫刻や絵画のイメージを吸収しながら、現代を生きる自分にしか描くことのできない日本画を目指して描き続けた石本。
様々な画集をめくりながら憧れた作品を、現地で直接見るという積年の夢が叶ったのは、日本人の海外渡航が自由化された1964(昭和39)年、44歳の時でした。

 

 

 

 

【2】

「三人の少女」とボッティチェルリの「春」

1947年、石本が26歳の時に「文部省第3回日本美術展覧会」に初入選を果たした《三人の少女》は、ボッティチェルリの《春》に登場する三人の女神「三美神」への憧れから生まれました。
この三美神に見られる「透けるような肌の表現」は、石本の理想として長年にわたり心の中にあり続けました。
《三人の少女》の日本画作品は、残念ながら破れてしまったため現存していませんが、制作の参考にしたと思われるデッサンが多く残されています。

【画家のことば】
……ボッティチェルリの《春》は、私の一番好きな絵の一つである。特に画面中央に踊る三美神の姿に強く惹かれる。(中略)私がヌードを描きつづけながら長年念願しつづけた肌の表現がここにある。……

石本正「絵をかくよろこび」(『芸術新潮』1977年7月号)

 

 

 

 

【3】

石本正「馬」とパルテノン神殿のレリーフ

1949年、文部省第5回日本美術展覧会に出品した《馬》にも、ヨーロッパ美術に関するあるイメージが重ねられていました。
当時、長岡天神にあった競馬場に毎日通い、夢中で馬のデッサンをした石本。70枚以上ものデッサンをもとに下絵(展示中)を作り、一気に作品を描き上げました。
デッサンでは右向きの馬も描いているのに、作品上の馬がすべて左を向いているのは、本で見たパルテノン神殿の馬のレリーフのイメージが重なっているからかもしれないと後に語っています。

 

 

 

 

【4】

ロマネスク美術への傾倒

1953年に発表した「高原」と「女」(展示中)から、石本の画風は一変しました。画集で見た中世ヨーロッパのロマネスク時代の壁画に惹かれ、その特徴をそのまま作品に導入したためです。
太い線に簡略化された形。ルネサンス以降の写実的で華やかな絵画とは異なる、素朴で生命感溢れる表現に、当時の作り手たちの心を感じ、石本は強い憧れを抱きました。戦後まもなく、それまで閉ざされていた欧米諸国の文化が一気に流れ込み、新しい表現が求められる時代の流れもあったのでしょう。ロマネスク美術と日本の古い絵画や彫刻に着想を得て描いた一連の作品は、新制作協会展において高い評価を受け、3年連続で新作家賞を受賞しました。
その一方で、石本はこれらの作品に対し、画集を参考にしすぎており自分自身の感動をえがいたものではないと考えるようになり、その後同じ作風で描くことを止めました。
しかし、表現が直接反映されることのなくなったその後の画業においても、中世ヨーロッパ美術がもたらす感動は彼に大きな影響を与え続けることとなります。

 

 

 

 

【5】
「女」
1953(昭和28)年  本画

30代の石本が、ロマネスク時代の壁画に特徴的な太い輪郭線を日本画に取り入れて描いた作品。スペインのビックにあるロマネスク時代の作品と、日本の「過去現在因果経」から着想を得ています。
左に展示中の下絵の段階から太い線を意識して制作していたことがうかがえます。

 

 

 

 

【6】
「つる」
1959(昭和34)年  本画

30代後半になると、次々に鳥をテーマにした作品を発表するようになりました。この頃、鶴に興味を持った石本は、動物園に出かけて動き回る鶴を熱心に観察しました。
背景に描かれているのは、年輪や地層といった不変のイメージ。その対比として、移ろう命ある存在として鶴の生命力を表現しようと思ったといいます。
彼が背景や鳥の羽を描く時に行った、絵具が乾く前にパレットナイフで削るように描く技法は、当時とても斬新だったため若い作家の間で流行しました。

 

 

 

 

【7】

2.深まる石本の芸術世界

1964年、石本は長年憧れ続けた中世ヨーロッパの美術作品を見るために、初めてイタリアなどの国々を旅しました。
特にボッティチェルリの透き通るような肌を持つ女性像に強い憧れを抱き、この頃を境に白く輝くような肌の表現に深みが増すこととなります。レースなどの薄く透ける衣を通して見え隠れする肌の美しさに魅了され、白いネグリジェや透ける布地の衣装をまとった女性像は、晩年まで繰り返し描かれました。また、旅先で出会った風景や作品のイメージが後年蘇り、そこから着想を得て制作するなど、画家にとって「旅」はとても重要な意味を持っていました。そして彼は、旅で得た感動や経験を自分自身の制作に役立てるだけではありませんでした。
当時、京都市立芸術大学で教職についていた石本。1969年から1990年にかけて、学生や卒業生らを連れての「ヨーロッパ美術の旅(ヨーロッパ美術研修旅行)」を計9回にわたり主宰しました。学生を伴っての1~3カ月にも及ぶ長期旅行を可能にした背景には、当時の学長・梅原猛氏や教授の日本画家・秋野不矩氏の後押しがありました。
初めてヨーロッパを訪れた時、現地で見たフレスコ画に、日本の古い絵画にも通じる表現や精神性を感じて心を打たれた石本。「現代日本画を志す者が中世のフレスコ画に触れ、その精神と関連性を学ぶことは、日本美術の美と心を理解し、新しい日本の美術を創造することにもつながる」と考え、この旅を計画しました。結果的にこの旅は、多くの後進の育成にもつながりました。

 

 

 

 

【8】
「けいとう」
1992(平成4)年  本画

石本は、『アッシュールバニパル王の狩猟』という死に行くライオンをあらわしたレリーフが好きで、長年本物を見てみたいと願っていました。1964年以降、大英博物館に何度も行って、ようやく見ることが出来た時にはとてもうれしかったと語っています。
その後、鶏頭を描いていた時、突然レリーフのライオンが浮かんできて、花がライオンのたてがみに見えたといいます。一般的には思いもつかない突飛な発想であっても、彼の中ではこうした空想がごく自然に浮かんできます。

 

 

 

 

【9】
「夏日」
2001(平成13)年  本画

フランスのル・ピュイは、「黒い聖母」信仰の中心地でした。人々は、幸福を求めて黒い聖母へ篤い信仰を捧げました。「黒い聖母」の多くは、12世紀のロマネスク時代に作られました。本作は、このような「黒い聖母」を意識して描かれた作品です。

 

 

 

 

【10】
「無我」
1996(平成8)年   本画

フランスのブルゴーニュにあるオータンのサン=ラザール大聖堂のタンパンを思い出して描いた作品。キリストの顔は慈愛と寛容の優しさに溢れ、これを表現するのは難しいと石本は思いましたが、モデルを通して全く別の、自分なりの解釈の女キリストを少しでも表現できたらと思い描かれました。

 

 

 

 

【11】

融合するイメージ ―ロマネスク美術とふるさと石見

2001年、郷里に自身の作品を収蔵・展示する美術館ができたことをきっかけに、石見地方(島根県西部)をテーマにした作品が次々と生まれました。中でも代表的なのが、益田市の蟠竜湖にすむ空想上の人魚をえがいた「蟠竜湖シリーズ」です。
そこに描かれる女性たちの足は、時に魚のひれのように、またある時は蛇の尾のように描かれるなど異形の姿をしています。これには、石本が憧れてやまない「ロマネスク美術」の影響がありました。
ロマネスク美術は、10世紀末から12世紀にかけて西ヨーロッパに広まった中世の美術様式です。この時代の作品の多くは、キリスト教寺院の柱や壁を飾る彫刻や壁画として残っているため、作品を見るためには現地に行く必要がありました。そのため石本は、一般向けのガイドブックには載っていないような田舎の教会まで調べ上げ、プロの旅行業者顔負けの綿密な旅行を計画しました。そこで出会ったのは、名もなき作者の手で作られ、地元の人々に大切に守り伝えられてきた心打つ素朴な作品たち。その感動は彼の心の奥深くに刻まれ、それから数十年後、ふるさとの湖の中でおだやかに暮らす人魚の姿と融合し表現されることとなりました。

 

 

 

 

【12】
「裸婦」
1978(昭和53)年   素描

1969年冬、学生たちを連れたヨーロッパ美術を巡る旅で、イタリアの画家・マンテーニャ(1431-1506)の《死せるキリスト》に出会い、強い感銘を受けた石本。その後同じように足元から見上げるような構図で何枚ものデッサンや本画作品を描きました。

【画家のことば】
……油彩ではあるがマンテーニャの《死せるキリスト》、この絵はまことに薄塗りで蕭々とした色彩の重量感が、足をこちらに向けてねる人間キリストのすごさを直截に伝える。
石本正「我がイタリア」(『芸術新潮』1970年7月号)

 

 

 

 

【13】
「乙女座像」
2008(平成20)年   本画

女性の後ろには、キリスト教美術や仏教美術に登場する聖人と同じく、光の輪のようなものが描かれています。題名の「乙女」が処女懐胎を果たした聖母マリアを思い起こさせることとも重なり、どこか神秘的な雰囲気を漂わせる作品です。

 

 

 

 

【14】

【学芸員の目】ナザレの女

ポルトガル中部の大西洋に面した小さな漁村「ナザレ」。今では開発が進み、美しい海岸線で有名なリゾート地となりましたが、数十年前は住民のほとんどが漁業で生計を立て、観光客を相手にしない素朴で気ままな生活を送っていました。今でもここには、ポルトガルの他の地域にはない独自の風習が残っています。その中の一つが特徴的な女性のスカートです。
縞模様の膝丈スカートとペチコートを最大で7枚重ねてはき、頭をケープのようなもので覆った女性たち。7枚のスカートには、漁に出た男性の無事を祈る意味が込められているとも言われています。
1985年、石本もポルトガルを旅した時にこの地を訪れているため、その姿を目にしたことがあったのでしょう。本作制作にあたりこんなエピソードを語っています。

”ある時、みかんの皮をむいていたら、ポルトガルのナザレという漁師町の女性たちが着用しているスカートが頭に浮かんだ。スケッチすることもなく、いきなり本画に仕上げた。”

背景の絨毯には、漁師町を想起させる魚と波の模様。女性の親密な姿から、まるでナザレを舞台にした恋物語の一場面が描かれているかのようにも見えます。
これまでにも絵に自分の夢や空想を重ねてえがいてきた石本。もしかしたらこの作品にも、そんな画家の夢物語があるのかもしれません。

 

 

 

 

【15】
「デルフィの御者」
1977(昭和52)年  素描  個人蔵

ギリシャ・アテネの北にあるデルフィ(デルフォイ)。そこにある《御者像》は石本のお気に入りの作品だったようで、彼が少なくとも3回は同地を訪れ、作品をスケッチしたり写真におさめたりしたことがわかっています。

 

 

 

 

【16】

石本は1982年と1984年の2回インドを訪れ、いずれもインド中部のチャンデーラ朝の古都「カジュラホ」で数多くのデッサンを残しています。
カジュラホには当時建造された寺院群の遺跡があり、建物の壁面をびっしりと埋め尽くす、何万体にも及ぶ男女神の交合像(ミトゥナ像)や豊満な女神像の石彫で有名です。その中でも画家が心惹かれたのは、人目に触れにくい隅の方にある、顔も欠け、手足も完全ではない女神像でした。

……カジュラホの彫像のどこが一番美しいかと聞かれれば、何といってもその曲線につきる。(中略)このトルソ*を見たとたん、これは絵になる、描き方がわかったと思ったものである……
石本正「絵をかくよろこび」(『芸術新潮』1977年7月号)
*…トルソ:首および四肢を欠く胴体だけの彫像

 

 

 

 

【17】
「菊」
2004(平成16)年  本画

2001年、石本が敬愛する日本画家・秋野不矩氏(1908-2001)が亡くなりました。彼にとって彼女は姉のようでもあり、母のようでもある存在でした。秋野氏は、大変なインド好きとして知られ、同地に取材した名作を数多く残しています。
葬儀のあと、花の代金を支払うため訪れた花屋の店先で売られていた赤い小菊。石本はその菊に彼女の面影を重ねてこの絵を描きました。

 

 

 

 

【18】
「湖畔」
2004(平成16)年  本画

湖の前に立つ女性が身につけているのは、秋野氏が好きだったインドのサリーのような着物。色も彼女好みの赤にしたといいます。この作品は、秋野氏の没後3年目に、彼女を追慕して描かれたものです。

 

 

 

 

【19】

3.“地域に根ざした文化“への思い

「芸術家はローカリティー(地域性)に徹底しなければならない」という持論を持っていた石本。「(作家の)個性というものは、芸術家一人の努力だけで確立しうるものではなく、かれを取り巻く時代や風土が一緒になって生みだすものだからである」と考えていました。
そして、ヨーロッパやインド、中国など世界各地を旅する中で、その土地に暮らす人々によって、何百年も守り受け継がれてきた固有の芸術文化の素晴らしさに触れ、この「地域に根ざした文化」こそが、文化のあるべき姿だとの思いを深めてきました。
その思いを石本は晩年まで持ち続け、2008~2010年にかけて行われた当館の「塔天井画制作事業」はまさしくそれを象徴するものでした。ふるさとの植物を題材に、地元の子どもから大人まで制作に加わり、さらには石本の志に賛同し全国から駆け付けてくれた人々、のべ857名もの手により完成した塔の天井画は、「地域に根ざした文化」の重要性をここ石見の地から全国へと発信する象徴的存在となっています。

◎塔の天井画の観覧をご希望の方は、受付までお申し出ください。

 

 

 

 

【20】
「サン・ミケーレ像」
制作年不明   素描   ベバーニャ(イタリア)

【画家のことば】
……ベバーニャにおいてもそうであったわけだが、イタリアはどこに行ってもすばらしい美術品で溢れている。(中略)そしてこれらの美術品はしっかりと生活に溶けこんで、人々に大切にされているのである。決して博物館に集めてしまおうなどとはせず、自分達の場所で守っていく。時には信仰の礎として、時にはそれを囲んで社交が行われる。
イタリア人は自分達の所が一番いいと思っているわけで、その中で文化を守ることを常としてきた。それこそが‟文化”のあるべき姿だと、私は思う。日本のようにあるべき場所からももぎ取って祭りあげ、生活から遊離してかえって駄目にしてしまうのでは全く意味がないのではないか。
イタリアへ行くと、美術や芸術の在り方を深く考えさせられてしまう。

石本正『画文集 我がイタリア』(1991、新潮社)

 

 

 

 

【21】
「三月二十日暗黒の眠り」
2003(平成15)年   本画

世事にほとんど興味を持たず、世の中の動きより、今日どんなモデルが来るかということの方が大事だった石本。そんな彼が、2003年3月20日、ラジオが伝えるニュースに怒り、たった一晩で描き上げたのがこちらの作品です。

《画家のことば》
……3月20日、バグダッドはアメリカのブッシュの悪魔によって爆撃される。チグリス・ユーフラテスの世界文化発祥の地でもあるイラクを平気で爆撃するアメリカの高慢さと文化平和に対し微塵の理解もなくまたそれに追従する日本政府に対し怒り以外どうすることもできない私自身の無力に、その夜は徹夜でイラクの絨緞の上で休む美女を描きながら、どうにもできなかった私自身の気持ちの捌け口を求めたことであった。……

石本正「イタリアへの想い」(『トスカーナの空 青春頌歌 岡崎忠雄作品集』、2003年)

女性の腹部はわずかに丸みをおび、子を宿しているかのようです。
先人たちから後世へと受け継がれる命と文化。本作には石本の様々な思いが深く刻まれています。

 

 

 

第2章 画家たちの旅

 

【22】
「樹とカラスとインコ」
吉村和起
2011(平成23)年

《画家のことば》
ここ数年、樹木と群れる鳥達が気になってしまう。鳥はカラス(黒)とインコ(多彩)と決め、実った夏みかんの木も入れた。形や色に迷いながら何度も消し、時には雑巾で洗いをくり返したが、和紙はビクともしなかった。堅牢さに驚くとともに敬服している。なぜこのようなテーマかと聞かれても理由はない。「描いてみたかったから」としか云えない。
カラスは日常身近に見られ、インコも今秋インドに行ってみて、野生のインコが街の樹木や、遺跡に群生しているのが見られた。
インドでよく見た緑色のインコが樹と一体になるように思えた。

 

 

 

 

【23】
「ルイザの世界」
池田知嘉子
1978(昭和53)年

《画家のことば》
アルジェリアの小さな町、スキクダ。土の丘に、
土色の肌をした裸足のルイザは住んでいました。
一瞬の雨の後には、土の丘一面に待ち侘びたように
昼顔の花が咲き、小鳥たちが小さな枝の上で風をうたっていました。
ルイザも昼顔も土の精のように光っていました。

 

 

 

 

【24】
「ルイザの国」
池田知嘉子
1978(昭和53)年

《画家のことば》
長い歴史の中で人は何を学んできたのでしょう。きらめくような勇気や優しさを散りばめながらも、世界は横暴や愚かさが生み出す悲しみに満ちているように思われます。 東にも西にも、いたる所に子供を失った母親たちの頭を抱え込む姿があります。絵は残念ながら自ずと重くなってしまいます。ルイザは私が母親になる前にアルジェリアの土の丘で出会った少女です。 彼女が母になっていることを願わずにはいられません。

 

 

 

 

【25】
「地獄谷」
西久松吉雄
2011(平成23)年

《画家のことば》
秋吉台(山口県)のカルスト台地の、山焼き後の風景に心動かされて描いた作品。
青々とした草原に白い石灰岩が羊のように点在する普段の秋吉台のおだやかな風景は、毎年2月ごろに行われる山焼き後に一変する。大地は赤黒く焼け、白い岩は無機質な灰色となり、荒涼とした風景が広がる。この風景に人々が暮らす以前の自然の姿を感じたと画家は語る。

 

 

 

 

【26】
「小さな旅」
平山英樹
2007(平成19)年

《画家のことば》
益田市木部の風景です。山陰本線の向こうに極小さな半島がありました。数件の集落と五分もかからないで登れる丘の上には社が建っていました。海はいつになく穏やかに輝いていて、晩春の午後の密やかな一隅に接したような気がしました。

 

 

 

 

【27】
「漂泊」
平山英樹
2012(平成24)年

《画家のことば》
江津市渡津の風景です。それほど広い場所ではありませんが、いきなり現れる奇岩群に惹きこまれました。私の中では、行き着く果てのように感じ、この作品を描きました。茫漠とした風景に絶えず日本海からの砂風が吹き荒んでいたことを思い出します。

(別添)
島根県西部・石見地方ゆかりの《小さな旅》《漂泊》は、2019年に平山英樹先生より浜田市へご寄贈をいただきました。このたびが初めてのお披露目となります。

 

 

 

 

【28】
「豊島」(てしま)
中村文子
1985(昭和60)年

《画家のことば》
この絵を描く前、瀬戸内海の無名の小さな島に行ってみたいと思っていました。
今のようにネットで検索などなく、行き方を調べるのもひと苦労の時代です。小豆島から豊島へ朝昼夕の3便船が運航しているということで朝便で渡って、夕便で戻り、スケッチを続けました。食堂もないので、宿屋で作ってもらう大きなおにぎり持参です。何かと不便でしたが、逆にいろいろ新鮮に感じ、元気いっぱいに描いていました。スケッチをもとに日展出品の小下絵を考えている中で、漁師の島・・・小さな島・・・のイメージを膨らませ、右下の民家の一部を船屋風に演出しました。この絵は、日展で特選を受賞し、私にとって思い出深い作品の一つになっています。

 

 

 

 

【29】
「旅の樹」
奥村美佳
1997(平成9)年

《画家のことば》
学生の頃、初めて旅したイタリアの強烈な印象を帰国してすぐに描いたものです。
現地で出会った、人のような2本の樹木が忘れられませんでした。

 

 

 

 

【30】
「アジャンタ」
吉川弘
1990(平成2)年

《画家のことば》
なにげない日常生活を営み、自然、社会との関わりの中で感じる
命の神秘、人の喜び、悲しみ、苦しみ・・・・・・・。
人が生きる上で与えられるさまざまな事象、それらが自分自身を見据える時、
過去から現在まで時空を越えて心の深遠な淵から精神の高まりを伴って甦って来る。
その精神の響を魂の昇華と供に作品に託したい。

 

 

 

 

【31】
「夜の中へ(ANTICOLI)」
松倉茂比古
1995(平成7)年

《画家のことば》
イタリア中世山上都市を写生していると、心が鎮まります。山上の村の夜の闇の中に神が居る、そう想う瞬間が確かにありました。深い闇を全身で感じながら過ごす時間は、自分との対話の一時でもありました。

 

 

 

 

【32】
「天使の時間」
岩本和夫
2003(平成15)年

ニコラス・ケイジ主演の映画「天使のくれた時間」(2000年,アメリカ)から名付けられた本作。作者は、時空と、もしもの話「もうひとつの人生」を旅するこの映画をとても気に入っていました。
この絵に描かれる異なった時空。月と太陽、橋で区切られた空間、水面と街並み、手前の岸と向こう岸、という構図の分断にそれがモチーフとなって現れています。作者が最も多く訪れたフィレンツェの町並みを思わせる茶色の屋根が印象的な作品です。

《画家のことば》
遠近法を壊して描かれている。遠近法を正しく設定すると、画面上十センチ分は、川向こうでは十倍くらいの寸法を表すことになる。したがってこれまで一軒分の建物であった場所に十軒分の建物が必要になったりする。セザンヌがやり始めた遠近法逆転の魔法を解いたものとなる。(岩本和夫氏 家族筆)

 

 

 

 

【33】
「黒い太陽」
岸本裕子
2005(平成17)年

《画家のことば》
絵を描くということ、この何かを生み出す行為を通じ、自分を顧み、物事を考えることが出来ると信じ、細々と制作を続けています。
この絵は、南米アンデスが舞台のものです。彼の地を訪れ、現地の人々の穢れのない眼や、
自然と共生し不便を不便と思わない生活の中に、美を感じ、感動を覚え、何か大切なことを教えられた気がしました。
現在、世界各地で大勢の罪のない市民が戦火にさらされています。
テレビの映像に、憤りや深い悲しみを抱き、アンデスの情景が頭に過ぎりました。
彼らならどういった心で争いを捉えるのだろう・・・・
筆は進み、ふと気がつけば「黒い太陽」が出来上がっていました。

 

 

 

 

【34】
「解体」
西野陽一
1993(平成5)年   個人蔵(石正美術館寄託)

《画家のことば》
捕鯨絵巻に触発されて描いたものですが 取材地は現在も生存捕鯨が許されている インドネシア ロンバタ島ラマレラ村です。鯨が捕れること自体 めったにない事ですが たまたま私の乗った船が仕留める幸運に恵まれました。ただ そのときも二隻の船が沈められ、今も手銛に木の船という命がけの狩りがおこなわれている現実に、考えさせられる事がたくさんありました。
ラマレラ村の生活は本当にわずかに捕れる鯨やマンタによる質素なものでした。でも村人たちは貧しさを感じさせることなく、たくましく、つつましく、そして明るく生きていました。私はすっかり村人に魅了され、人々とその生活も描きたいと思ったのです。
捕れた鯨は翌朝浜で解体され、猟に参加しない人にも公平に分配されます。

 

 

 

 

【35】
「イスラムの街」
八田哲
1984(昭和59)年

《画家のことば》
インド、アフガニスタン、パキスタン、シリア、ヨルダン、トルコなどイスラムの国々。
それぞれの旅のなかでの、そのうちのトルコのアンカラの街を描いた作品です。

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。