特別展「生誕100年 回顧展 石本 正」作品解説
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ごあいさつ
2015(平成27)年9月、95歳で逝去された日本画家・石本正(いしもと・しょう)の生誕100年を記念して、初めての本格的な回顧展を開催します。
石本正は1920(大正9)年、現在の島根県浜田市三隅町に生まれました。1944(昭和19)年、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)日本画科を卒業し、1950(昭和25)年の創造美術展の入選を皮切りに、女性を題材にした話題作を次々と発表してきました。その後、舞妓や鳥の連作に取り組む一方、イタリアなどの西欧の旅を続け、中世ヨーロッパのロマネスク様式のイメージを積極的に取り込み、華麗で情念的な石本芸術を完成させました。
新世代として一躍脚光を浴びる画家となった石本は、1971(昭和46)年に日本芸術大賞、芸術選奨文部大臣賞を立て続けに受賞しましたが、以降はすべての賞を辞退します。生涯、地位や名誉を求めることなく、伝統に縛られない独自の日本画を追求しました。対象が語りかけてくるものを素直に描くという姿勢を貫き、最期まで現代日本画壇の第一線であり続けました。
故郷の島根県浜田市に2001(平成13)年に開館した浜田市立石正美術館には約14,000点の石本作品が寄贈され、孤高の画家・石本正の生涯にわたる作品の全貌を見ることができます。石本の希望により、これまでは館外への貸し出しは限られていましたが、生誕100年を迎えたのを機に、作品をもっと多くの人に見て欲しいとの遺族の願いから、全国を巡回する回顧展が開催できることとなりました。
本展は、石本の青年時代から最晩年までの75年におよぶ画業の全貌を、風景、鳥、花、裸婦を題材にした代表作でたどるものです。最期の瞬間まで絵画一筋に生きた石本の生涯と創作の原点をご堪能いただければ幸いです。
最後になりましたが、本展開催にあたりまして貴重な作品や資料をご出品いただきました所蔵者の皆様、協賛社様、展覧会実現のためにご支援いただいたすべての方に心から御礼申し上げます。
主催者
【2】
【第1章】画家となる
石本正は、1920(大正9)年7月3日に島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町岡見)に生まれた。田舎町ではあったが、実業家のおじの影響もあって、当時としては珍しいレコードや様々な種類の本にも親しみ、また子供らしくヘビや昆虫、魚を相手に豊かな自然の中で活発に遊びまわった。生涯自由で独創的な創作姿勢を貫いた彼は、この故郷における幼少期の経験や記憶が、自らの画家としての原点だと語っている。
旧制浜田中学校を卒業したのち、1940(昭和15)年に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科に入学。しかし入学はしたものの、次第に伝統的な日本画の様式を重んじる授業に息苦しさを感じるようになってしまい、学校とは別に洋画の研究所に通うようになる。そこでその後につながるデッサンの基礎を身に付けていった。
そんな画学生としての自由な時間は、激しさを増す戦中の1943(昭和18)年、学徒動員によって一転する。翌年9月には繰上げ卒業となり、部隊の小隊長として中国に渡り気象観測にあたった。そして終戦の翌年に復員した石本は、画家として本格的に歩むべく再び京都へ。高等学校の美術教員で生計を立てながら描いた《三人の少女》が第3回日本美術展覧会(日展)に初入選したのに続いて京都市美術展でも受賞し、終戦直後の不安定な社会情勢のなか、京都を拠点に画業を歩み始めたばかりの彼にとって、願ってもない順調なスタートとなった。
【3】
「田ノ浦海岸」
1936(昭和11)年頃 16歳頃
個人蔵
島根県立浜田中学校(現島根県立浜田高等学校)4年生(16歳)の頃、胸を患っていた同級生をなぐさめるために、使っていた油絵具一式と一緒に贈った作品。描かれているのは、地元の子ども達の遊び場であった思い出深い海岸。病気であまり外出できないであろう友人を思う優しさが伝わってくるかのような作品だ。キャンバスではなく、木箱の蓋のような板に描かれている。
【4】
「自画像」[素描]
1940(昭和15)年頃 20歳頃
画学生の頃、同級生三上誠(1919-72)と一緒に、それぞれの自画像を描いて過ごした時の思い出の作品。石本によると、三上はデッサン力がずば抜けていて、それは心で描いたと言えるような素晴らしいものだったという。彼から描き方を教えてもらうこともあった。黒のコンテで描かれた陰影や、真っ直ぐこちらを見据える視線がとても力強く印象深い。
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「軍鶏」
1941(昭和16)年 21歳
予科二年への進級制作として描いた。大阪府豊中市西福寺にある伊藤若冲の絵に刺激を受け、京都上賀茂の農家に通って軍鶏を観察し、自己流で描いた。助教授三宅鳳白に「なかなかいい絵を描きましたね」と評価された。絶妙に配置された三羽は、軽く翼を上げ威嚇しているようである。余白を広く取った構図が緊張感をいっそう強めている。一枚一枚描かれた羽毛や、絵具を盛り上げて質感まで表現された太い脚に、鋭い観察眼が感じられる。
【6】
「自画像」
1940年代 20代
身につけているのは軍服または戦時中男性が着用した国民服だろうか。髪型も坊主であることから、戦時中から終戦直後の制作と推測される。後年、ピカソの「青の時代」に憧れて描いた作品群に通じるブルートーンでまとめられており、背景には三日月のようなモチーフが象徴的に浮かんでいる。筆遣いや漂う空気感などにはセザンヌの影響もみられる。
【7】
「高雄口」
1948(昭和23)年頃 28歳頃
個人蔵(浜田市立石正美術館寄託)
京都双ヶ丘付近から北西にそびえる愛宕山を描いたもの。山の高い所と、奥の家の壁だけに当たる明るい残照が、刻々と日が沈んでゆく夕暮れ時の様子を伝えている。細部を省略し線と面で構成した家並みの表現は、この二年後に描かれた青年時代の代表作《五条坂風景〈五条坂〉》(No.46)へつながる、形態へのとらえ方への意識を感じさせる。
【8】
コラム1 日展のころ―《三人の少女》について―
1947(昭和22)年の第3回日本美術展覧会(日展)に初入選した《三人の少女》。日展への初出品・初入選という画家としてのスタートとなった作品だが、残念ながら、本画は随分前に破れてしまい現存しない。2002(平成14)年に大下絵の切れ端が見つかったが、全図を確認できるものは当時の白黒のポストカードのみとなっている。
石本作品の終戦間もない頃の特徴は、セピア色など赤茶系の絵具の多用が挙げられる。例えば《馬》(no.39)は、赤茶系でまとめられた馬や大地が画面の大半を占め、上部には少し青みがかった淡い灰色の空が広がっている。この時代、セピア色を多用した作品が多かったことについて、石本自身は戦時中に中国大陸で見た風景の影響によるものと語っている。
「戦争に行って、その傷跡はあるとしてもそれとは別に、大陸の気の遠くなる程広々とした大自然がいつも頭の中に思い浮かぶんです。」座談会「京都芸大、その歴史と人材」(『月刊美術No.8』1976年6月号)
復員の翌年、本格的に画家として歩み始める最初の大作として描いた《三人の少女》も、同じようにセピア色が多く使われていたのだろうか。本作のためのデッサンは、気象観測にあたっていた中国の測候所から持ち帰った地図の裏に描かれているものもあり、絵を描きながら中国での記憶が呼び起こされる時もあったかもしれない。
しかし、石本がこの作品で表現したのは戦争時の暗い記憶ではなく、ずっと心の中にあった美しい夢だった。三人の少女の姿に、憧れ続けていたサンドロ・ボッティチェルリの《春》の美しい女神をイメージとして重ねていた。
【9】
「三人の少女」[素描]
1947(昭和22)年 27歳
第3回日展に出品した《三人の少女》のための素描。遠縁にあたる少女がモデルとなっている。本画制作に向けて、素描を何十枚も描いた。足の先、手、目など部分だけを執拗に描いたものもあり、一点の作品制作に向けた人体のフォルムや細部の表現へのこだわりがうかがえる。《三人の少女》の本画は破れて現存しないが、子どもの頃から画集を見て憧れたボッティチェルリの《春》の三美神の姿をイメージして描いたものだった。女性の表情や人体の陰影のつけ方の繊細さに、ボッティチェルリの透明感のある女神像に少しでも近づこうとする気持ちが伝わってくる。
これらの素描の中には、戦時中に中国で気象観測に当たっていた測候所から、復員するときに持ち帰った地図の裏に描かれているものもあり、地図が微かに透けて見える。敗戦した日本では絵を描くための紙が手に入らないと思い、他の人が食料を持ち帰るなか、ありったけの地図を鞄に詰め込んだのだという。
【10】
「馬」
1949(昭和24)年 29歳
第5回日展に出品した作品。当時勤めていた高等学校の近くに競馬場があった。毎日時間をみつけては通い、夢中でデッサンをした。様々な方向から何枚も描き、馬の顔や脚などを一枚の紙に幾通りも描いた。馬のデッサンだけで約七十枚にものぼった。それから下絵をつくり、一気に描きあげたという。馬の群れが左に向かって一列に歩いている構図には、本で見て憧れたパルテノン神殿の馬のレリーフがイメージとして重なっている。
【11】
「少女〈野べに〉」[大下絵]
1948(昭和23) 28歳
第4回日展出品《少女(野べに)》の大下絵。本画の所在は不明。人体の形を意識しながら、身体の丸みに柔らかく沿う衣服の襞の繊細な表現にこだわりがみられる。ボッティチェルリの女神像を意識して描いたのであろうか。目や顔の細部の描き込み、線の入れ方には仏像の影響もうかがえる。女性のポーズは村上華岳《裸婦図》のイメージも重なり、日本と中世ヨーロッパ絵画の良さを吸収し、自分なりに表現しようとする意識が感じられる。
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【第2章】画家としての挑戦
1949(昭和24)年に、母校である京都市立美術専門学校の助手となった。そして翌年には、当時助教授だった秋野不矩の勧めで日展から創造美術(のちの創画会)に活動の場を移す。ここからの十数年は、石本の画風が最も大きく変容した画家としての挑戦ともいえる時代となっていく。
はじめに第3回創造美術展へ出品したのは《五条坂風景》(No.46)《踊子》(No.54)の二点だった。その翌年には創造美術と新制作派協会が合併し新制作協会が発足。ここで《旅へのいざない》(No.58)が最初の新作家賞を受賞する。しかし次の年に出品した《二人》(No.60)から、作風が一変した。彼に影響を及ぼしたのは、画集で見た中世ヨーロッパのロマネスク美術様式の壁画だった。太い線と細部を簡略化した素朴な表現で生き生きと描かれた絵画に、当時の画家たちの心を感じ憧れたことが理由だった。それらにヒントを得て、その表現を取り入れた作品を発表するようになったのである。
これら一連の作品は高い評価を受け、1953 (昭和28)年から三回続けて新作家賞を受賞。1956(昭和31)年36歳の時には早くも会員に推挙され、以降は鳥を主なモチーフとして、羽や背景の描写に絵具が乾かないうちにペインティングナイフで削るという独自の技法を取り入れるなど、これまでにない新たな表現に対する意欲的な創作姿勢をもって、同会の中核を担う画家として着実に歩みを進めていった。
【13】
「五条坂風景」[素描]
1950(昭和25)年 30歳
《五条坂風景(五条坂)》(No.46)制作にあたっての、最初の写生と思われるもの。石本によると、家には扉や窓もあり、画面の中間にあたる部分には畑もあった。しかしこの時刻、この場所で「描きたい」と心から感じたのは、シミの浮き出た古い壁の色が西日を受けて微妙に変化する様子だった。それを表現するため、写生の段階から細かい部分をすべて切り捨て、家の形を線と面だけでとらえた。このシンプルな構成と抑えた色味が、西日を受けながら夕暮れの静寂にのまれていく街の空気感を一層強めている。何度か写生に通ったものの、最初の写生を越えるものはできず、そのまま大きくのばして草稿を作り本画に描くことを決めたという。
【14】
「五条坂風景<五条坂>」
1950(昭和25)年 30歳
「対象への感動が作品を描かせてくれるのをこの時程感じた事はありません」と語り、自ら作画の原点と位置付け、生涯手元に置いて大切にしていた作品。たそがれの光に浮かび出た京都の古い家並みが、青系の色のトーンで線と面だけで構成されている。石本は、日本絵画の素晴らしさは、線と面だけで構成される平面的な画面によって、視覚の向う側に隠されている形態や色彩をつかもうとするところであり、そこに写実表現では成し得ないリアリティが生まれると考えていた。本作の表現は、彼が思う日本画そのものだった。発表当時は古くさい絵などと評価されたりもした。しかし、彼にとっては描きたいものを描いたという満足感と自信があった作品だった。後年、もし自分が本作のような仕事をずっと続けていたなら、もっと良い絵が描けたのではないか、とまで述べている。
【15】
「五条坂」[草稿]
1950(昭和25)年 30歳
写生をもとに大きく引き伸ばして描いた草稿(大下絵)。本画はこの下絵から転写して描かれた。《五条坂風景(五条坂)》(No.46)発表の数年後に、この作品を描いた時の感動をもう一度味わいたいと思い、さらに一枚同じ絵を描いている。その時にも、この大下絵をもとにした。
【16】
「女」[素描]
1950(昭和25)年 30歳
この頃、近くに住んでいた、遠縁にあたる少女を描いたもの。《踊子》(No.54)や《旅へのいざない》(No.58)を制作するもとになった。彼の作品には若い頃の思い出や出会ったモデルの表情が投影されている。この少女は、後の女性像に影響を与えた一人。彼の心にはずっとこの少女の思い出が生き続けていた。石本の女性像の原点ともいえる素描である。
【17】
「踊子」
1950(昭和25)年 30歳
この頃、ピカソの青の時代の作品に憧れていた。モデルになってくれた少女は、ピカソの絵に登場する女性とよく似ていた。彼女はバレエを習っていた。彼女を見ていて、サーカスに心惹かれていた幼い頃を思い出し、踊子のもつ命のはかなさや美しさを描きたくなった。出番を待つ踊子の不安と期待が入り混じった複雑な表情の中に、創られた美しさと少女のかなしみを描き出そうとした。
【18】
「旅へのいざない」
1951(昭和26)年 31歳
第15回新制作協会展で新作家賞を初受賞。美術評論家・河北倫明に高く評価され、同年第3回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)にも推薦により出品。作品名はボードレール詩集『悪の華』所収の詩からつけた。この詩にアンリ・デュパルクが作曲し、シャルル・パンゼラが歌った歌曲『旅へのいざない』を聴きながら、石本は創作した。詩中の「曇りがちなあの空の 濡れそぼった太陽」の濡れた質感を表現するため、太陽の部分に油絵具が使われる。
【19】
「二人」
1952(昭和27)年 32歳
フランスの小さな町ラ・シェーズ・デューの教会にある《死の舞踏》という壁画を画集で見て、そのイメージを重ねて描いた。ロマネスク美術に憧れ、その表現を日本画に取り入れて描いた最初の意欲作で、第16回新制作協会展に出品した。右から順番に、男と女が出会ってやがて抱擁し、諍いをして一人ぼっちになるという物語が描かれている。左から3番目の男性像だけが赤く、目も四つ描かれているのは、怒りの表現なのだという。
【20】
「高原」
1953(昭和28)年 33歳
第17回新制作協会展で二回目の新作家賞を受賞。前年の《二人》(No.60)からさらに画風が変わり、黒く太い輪郭線で表された人体が力強く印象的だ。画集で見たフランスの教会の壁画と、ルーマニア北方の壁画の太い線に触発された。同様の表現方法で描いて、1955年まで三年連続受賞する。世間から高い評価を得たものの、画集に影響を受けすぎたと感じたことから、一連の作品をあまり好きになれず、その後長く倉庫から出すことはなかった。
【21】
「双鶴」
1956(昭和31)年 36歳
本作を出品した年に新制作協会の会員に推挙された。この頃から鳥をテーマにした作品が多くなっていく。荒々しいタッチで描かれた独特の表現によって、日本画における新しい花鳥画の世界を展開させた。この絵は当初、水浴する日本髪の女性を描いていた。ところがある日、木下順二の戯曲『夕鶴』の舞台を見て大変感動し、描きかけの女性を鶴に変えて仕上げたという。現在はその痕跡が見えないほど厚く絵具が塗り重ねられている。
【22】
「つる」
1959(昭和34)年 39歳
この頃、鶴に興味を持ち、動物園に出かけて動き回る姿を熱心に観察した。背景の独特な波のような模様は《紅土の丘》(No.75)と同様のテーマで、土や地層といった不変のものであり、それと対照的に移ろう命ある存在としての鶴の生命力を表現しようとした。彼が背景や羽を描く時に用いた、絵具をペインティングナイフで削る技法は、当時とても斬新だったため若い画家の間で流行した。
【23】
「紅土の丘」
1958(昭和33)年 38歳
茶褐色の荒涼とした大地に佇む一羽のフクロウ。宙を凝視する姿に、力強さとともに哀愁も漂う。独特の波のようなマチエル(絵肌)は、土や地層など不変のものを表し、移ろいゆく命をフクロウの姿で表現しているのだという。目の周りに群青の隈取りが入れてあり、この色がフクロウの眼をより印象深くみせている。強調された視線が、厳しい荒野に生きるフクロウと、石本自身あるいは見る者の心情と重なるようにも感じられる。
【24】
「裸婦」
1962(昭和37)年 42歳
第3回轟会の出品作のひとつ。絵具をぬぐったり削ったりして、まるで人体を木から彫りだすような手法で描かれている。人体の重みや、あたかも触れることができるような肌の質感といった、目の前に存在する人体のリアリティをいかに表現するか、という模索を重ねる過程を本作にみることができる。
【25】
コラム2 轟会
石本正を一躍画壇の注目作家に押し上げた転機のひとつに、銀座・村越画廊のオーナー・村越伸(1922-2005)の尽力によって発足した展覧会『轟会』〔1959(昭和34)年発足〕が挙げられる。メンバーは、当時新進作家として注目され始めていた石本正・加山又造(1927-2004)・横山操(1920-1973)の三人だった。
村越は人生のすべてを美術業界に投じた人物で、34歳の時に画商として独立して間もない頃、全てを賭けて立ち上げた展覧会が轟会である。
村越がこの若い画家たちにかけた意気込みは並々ならぬものだった。若手作家はなかなか使う事の出来ない高価な額や、斬新で贅沢なパンフレットを彼らのために用意した。だが、その第1回に出品した石本の《横臥舞妓》に対し、「見事な失敗作」という見出しの入った批評が全国紙で掲載されるなど風当たりの強いスタートとなる。しかし、初回展が全国紙で大きく取り上げられたこと、また一見辛辣な見出しの記事にも「見方によってはタイトルのつけかたに、新進作家に対する思いやりのようなものも感じられた」(村越)ことから、轟会の継続に勢いを与えた。
その後三人が毎年意欲的な力作を出品し続けたことに加え、それぞれの画壇における進歩もあいまって、次第に広く世間の注目を集める展覧会となっていった。創立10周年を迎えるころには、開店時間前からコレクターが列をなして並ぶまでになったという。
村越はこの轟会について「私の自惚れかもしれないが、新世代の作家の台頭をいや応なく印象づけたのが『轟会』であったと思う」という言葉を残している。
【26】
【第3章】中世ヨーロッパと舞妓の画家
1964(昭和39)年11月、44歳のときに大きな転機がやってくる。この年に日本人による海外渡航が自由化され、ずっと憧れ続けていたヨーロッパを初めて訪れることができたのだった。
この渡欧で目にした憧れの本物の作品は、彼の心に大きな感動と衝撃を与える。特に中世特有のフレスコ技法で描かれた壁画はこれまで印刷物で見てきた印象とは全く異なり、想像を超える美しさだった。この中に、自身が向き合う日本画に通じる繊細な色あいや表現、精神性をも強く感じ取った石本は、この文化に直に触れることは、これからの日本美術を考えるうえでとても重要なことだと確信する。やがて学生や卒業生らも伴い、何度もヨーロッパ美術の旅に行くようになった。
石本芸術を象徴する舞妓が多く見られるようになるのは、ちょうどこの時期に重なる。これまで多くの日本画家が描いてきた舞妓を主題にして、着物姿だけでなくヌードの舞妓も積極的に発表した。この背景には、中世ヨーロッパだけではなく、日本美術がもつ本来の良さにも真剣に向き合い、現代の自分にしか描けない新たな日本画を追求しようとする石本正の強い思いがあった。
1971(昭和46)年、第3回日本芸術大賞と第21回芸術選奨文部大臣賞の二賞を受賞した後はすべての賞を辞退し、地位や名誉を求めない姿勢を貫いていく。
【27】
「舞妓」
1965(昭和40)年 45歳
1963(昭和38)年頃、観心寺(大阪府河内長野市)の如意輪観音像に接して、初めて舞妓が描けるようになった。この仏像の妖しいまでの美の秘密が、伏し目がちの表情にあることに気がついたからだ。本作では、その伏し目がちな表情を取り入れながら、向き合う二人の舞妓の顔に月光が当たっている様子を描こうとした。着物やかんざしなどに使われている箔が、つめたい月の光を効果的に演出している。
【28】
「舞妓」
右 1966(昭和41)年 46歳
左 1968(昭和43)年 48歳
No.104は1966(昭和41)年の第30回新制作協会展で当初右隻として発表され、四人の舞妓の他に三人の舞妓裸婦が描かれ、着衣と裸婦の七人舞妓の図だった。当時次のように述べている。
「今回の作品は私の唯今の制作過程に於ける試みであって完成したものではありません。完成した作品のイメージはこの裸婦の三人を消して左に仝(おな)じ大きさの画布を持って来て腰をおろした舞妓二人と立った舞妓を一人加えて、竹杯※(原文ママ)の七賢人を模して描きたいと云うことです。従ってこの作品は完成品ではないのですが、会場に出してその効果を見たかったのです。」※「竹林」の誤植と思われる。(『芸術サロンニュース』1966年11月25日)
作品名は《舞妓(未完成)》とつけられた。その後、言葉の通り三人の舞妓裸婦は金箔と絵具の下に消えた。座った三人舞妓図であるNo.118が二年後に左隻として展示され、石本が目指した「竹林の七賢人を模した図」が完成したかと思われた。しかし晩年まで、右隻の三人の舞妓裸婦を消すべきではなかったと悔い続けた。本作は長い生涯の中で唯一後悔を口にした作品である。今では消された舞妓たちの輪郭が金箔地に微かに浮き出る様子を確認できるのみだ。
【29】
コラム3 “舞妓”を通して描いたもの
石本が舞妓を描く理由の一つに、日本古来の絵画や仏像、あるいは中世ヨーロッパのフレスコ画など“古典芸術”に対する憧れがあった。例えば、平泉・中尊寺にある「一字金輪佛頂尊」が挙げられる。肉色の彩色が施された顔と、白粉を塗ったような白っぽい肌に「日本的エロチシズム」を感じた彼は、それを舞妓に置き換えて表現しようとした。また、大阪・観心寺の本尊「如意輪観音菩薩」の妖しいまでに魅力的な伏せがちの目にヒントを得て取り入れてもいる。
ただし、彼が求めたのは単なる外観上の表現だけではなかった。親元を離れ京ではたらく舞妓という職業そのものが持つ、少女たちが内に秘めた寂しさ・哀しさが外見の華やかさとのギャップを生み、石本はそこに「アンバランスな美」を見出した。その様子を、美しく着飾り化粧をしていても手だけは浅黒く、どこか土の匂いがするような素朴な女性像として描いた。
それから時を経て舞妓の表現も移り変わり、次第にリアリティーを追求した華やかで現代的な女性像へと変わっていった。絶筆となった未完の作品も“舞妓”であったことから、生涯にわたり長年のテーマとして取り組んだことがうかがえる。
【30】
「のれん」
1970(昭和45)年 50歳
モデルは当時祇園一とうたわれた豊千代という舞妓。純白と朱のあでやかな着物に身を包み、お茶屋ののれんをくぐる姿は、表情も立ち姿も凛として気品にあふれている。お茶屋に通い、アトリエにも呼んで何枚もデッサンを重ねたが、彼女が美しすぎて絵にできない状態が何年も続いた。本作では観心寺の如意輪観音や中尊寺の一字金輪佛頂尊の姿を重ね、表向きの美しさだけを追わない姿勢で描いている。舞妓の代表作のひとつである。
【31】
「舞子裸婦<舞子裸像>」
1972(昭和47)年 52歳
川端が自死する三ヵ月ほど前にふと石本のアトリエを訪れ、「いよいよ石本観音ができますね」と言ってじっと見つめていたという作品。こちらをまっすぐに見据える赤い着物の舞妓の妖艶な姿、紺色の着物の舞妓のうつむき加減で哀愁をおびた表情。川端がこれらの作品の中にみた仏性は、どのようなものであったのだろうか。
【32】
コラム4 川端康成との親交
優れた芸術作品を見出す目利きとしても名高い文豪・川端康成(1899-1972)は、石本の舞妓や裸婦作品を高く評価し愛好していた。
この二人の芸術家の親交は、川端が新潮芸術振興会の日本芸術大賞で選考委員をしていたことから始まった。川端が石本の女性美を深く認めていた事がわかる、次のようなエピソードがある。
日本芸術大賞の受賞者は、候補者の中から1名のみ選ばれるのが原則だったが、石本が受賞した第3回の時だけは違っていた。審査の終盤、石本正を強く推す川端と、洋画家・地主悌助(1889-1975)を推す文芸評論家・小林秀雄(1902-1983)が激しく対立したのである。結局この対立に決着がつくことはなく、主催者の配慮により異例の二人同時の受賞となった。
その翌年の1月、川端が石本のアトリエを訪れた時描いていた《舞子裸婦〈舞子裸像〉》(no.132)を見せると、「いよいよ石本観音ができますね」と言ってじっと見つめていたという。川端が亡くなる三か月前のことだった。
また石本は、牧羊社から出版予定の『雪国』『古都』『伊豆の踊子』の三部作豪華本のうち、『伊豆の踊子』の挿絵を川端から頼まれた事があった。それが川端の没後すぐに出版されることになり、石本が描いたのが《二人の踊子》(no.135)などだった。
その後、『伊豆の踊子』だけが出版されずに現在にいたる。しかし出版準備だけは進んでいたのだろう、《「伊豆の踊り子」の挿畫について》と題した石本の手書き原稿などが近年見つかった。原稿には、愛情と哀しみのはざまに生きる美しき女性たちを表現した川端康成の芸術世界に対する、深い思慕と敬愛の念がつづられていた。
【33】
「二人の踊子」
1972(昭和47)年 52歳
発表当時の個展で、上に描かれた女が『雪国』の駒子、下が『伊豆の踊子』のイメージに重なると話題となった。二人がまとうあでやかな朱の着物は、能装束を意識して描いたという。のちに小説のはかなく消える愛の悲しみを表現するには、やや綺麗すぎ、作りすぎたかもしれないと述べている。上下の舞妓の朱の色の微妙な違い、着物の裏地の模様まで繊細に描かれ、裸体だけでは表現しきれなかった世界観への思い入れの深さが感じられる。
【34】
「姉妹」
1973(昭和48)年 53歳
彼は長い間、真っ黒い舞妓、不動明王のような舞妓を描きたいと願ってきた。和歌山県にある高野山金剛峰寺の赤不動や滋賀県園城寺の黄不動、そんな宗教的なものを作品にとり入れたかったのだ。また、イタリアのサン・フランチェスコ聖堂の壁画に描かれていたゴシック期の画家チマブーエの《キリスト磔刑図》も、この作品を構成するイメージのひとつだ。経年により黒く変色してしまった黒いキリストの磔刑図、火焔に包まれた不動明王、日本の女性の情感そのものである舞妓、この三つを消化した上で描こうとしたのがこの黒い舞妓だ。顔は、舞妓ではなく不思議な不動明王のようなものにしたかったという。
【35】
【第4章】花と裸婦
1974(昭和49)年、上村松篁、秋野不矩らとともに創画会を結成した。この第1回展に出品した《鶏頭》(No.141)は、大作としては初めてとなる花を主題とする作品で、これまでにない内容に、新たに立ち上がった創画会への意気込みを感じさせた。この頃を境にヌードの舞妓がほとんど見られなくなり、舞妓ではない裸婦や花の作品が多くなっていく。石本にとって女性は聖なるもの、美しいものの象徴であり、その追求は永遠のテーマともなっていた。
この50代半ば過ぎからの女性像は、黄土や金色など単色の背景で、一人ないし二人構成で仏画やキリスト教絵画などに通じるような表現が多く見られる。また40代の頃の作品に比べると女性の背も手足もすらりと長く、肌も透けるような美しさで描かれるようになっていた。目の前に存在しながらもどこか非現実的で、深い情感と艶やかさを漂わせる姿は、石本の描く女性美が円熟期を迎えたことを物語る。
1989(平成元)年69歳のとき、それまで女性美を見つめ続けた石本が花だけをテーマとする個展を開催した。美しいだけでなく、やがて枯れゆくいのちの哀切に心打たれ描いた花々。ある時「僕には花が女性に見える」と語ったように、彼にとって花と女性は表裏一体のものであった。
地位や名声を求めず、美の追求のためにはいっさいの妥協もしりぞけ、ただひたすら本物の感動を手に入れるための歩みの中で、絵を描くことが人生観そのものとなっていった。
【36】
「鶏頭」
1974(昭和49)年 54歳
写生の中に精神性を込める東洋画の伝統を自分なりに解釈した作品だという。中国の宋や元の時代の花鳥画の影響も見受けられる。単色の背景に三本の鶏頭が平面的かつ象徴的に配置された画面構成は、その後の裸婦や花の作品に通じるものがある。
【37】
「午睡」
1977(昭和52)年 57歳
この頃より、女性像の衣装に「うすぎぬ」がみられる。これは、ボッティチェルリ《春》の三美神の、うすぎぬを通して見える美しい肌への憧れが表れたものだった。
「うすぎぬを通してみえる素肌の表情というものは、光と影の関係ではとても捉えきれないばかりでなく、肌そのものも、明るい部分と暗い部分という区分けではつかまえきれない、微妙な面の変化をもっていると思う。私がヌードを描きつづけながら長年念願しつづけた肌の表現がここにある。」(石本正「絵をかくよろこび」『芸術新潮』1977年7月号)
これまで内面を浮き彫りにするようなリアリティの追求から、肌の美しさという、よりシンプルな女体の美そのものの追求に移り変わっていることがわかる。
【38】
「秋」
1981(昭和56)年 61歳
この絵のモデルはとても美しい女性だったという。デッサンをしている時に彼女の中に興福寺の阿修羅像が見えてきて、そのイメージを重ねて描かれた。石本が好きな仏像のひとつで、美しい少年の姿で表された像を思い浮かべながら、その美しさを女性の姿で表現した。
【39】
コラム5 ヨーロッパ美術巡礼の旅
石本正先生が企画された「ヨーロッパ美術の旅」は、1969(昭和44)年から20年間の間に九回行われ、京都市立芸術大学の多くの日本画科卒業生や在学生が参加した。私が参加したのは、1975(昭和50)年の第3回目の時だった。
ロンドンを発って、フランスからイタリア全土を81日間かけて巡るという、究極の価値ある旅行プランだった。これだけの数の教会を観て周ることは今後も不可能なことであり、先生の旺盛な研究意欲と探求心によって企画された賜物だった。
先生が一年近くかけて詳細に作成された旅行日程冊子の最初に、「フランス・イタリーにおいて中世の面影を今も鮮やかに残す街や村の風景を写生しつつ、そこのロマネスク・ゴシック寺院・フレスコ画・モザイク画・彫刻を訪ねる事は此の旅行の最も有意義な試みでもある。(中略)フレスコ画は水絵具を用いて描かれ、漆喰の速乾性ゆえに一気に描き上げなければならず、独自の表現内容と技法を持ったと考えられる。現在同じくツヤのない水絵具を用いる日本画の技法の技術との関連と相違を追求することは日本美術の美と心を理解し再認識する契機となると思う。ヨーロッパのほんものの文化を理解する為にどうしてもこれだけの日数を必要とした。此の旅行を終えてから後の諸君は我々の教えられ信じて来た西欧芸術の見方がいかにかたよったものであり、誤り間違いが大きかった事に気づく事と思う。その反省は日本古典への回帰、新しい日本の美術を創造する事にもつながる。」という文章が綴られ、旅行説明会で期待感に高揚した記憶がある。
イタリア全土を巡る行程の中で、地方の街や村にあるロマネスク教会を探索しながら行った先に、驚嘆するほどの素晴らしいフレスコ画に数多く出会えた感動は貴重な体験だった。
シエナやアッシジ、フィレンツェなどの中世の城郭都市や山上都市の写生もあり、先頭を切ってバスから駆け出し目的の街並みを俯瞰する場所に一目散にいかれる姿を追うばかりだった。
この「ヨーロッパ美術の旅」の体験は、現在も私の作画の根幹を成している。
浜田市立石正美術館館長 西久松吉雄
【40】
「牡丹」
1989(平成元)年 69歳
白と赤の牡丹が並んで咲いている様子を見て、オーストリアのアルトゥル・シュニッツラー原作の『輪舞』という映画の一場面が浮かんだ。白や赤の牡丹は、輪になったりS字型になったりして踊っている娘たち。左上の種子は、輪の外からその様子を見ている青年たちの頭の飾り、などと夢想しながら描いた。すべての花や葉を見えたそのまま描くことはしなかった。見えたものすべてを描いてしまうと、自分が美しいと感じた流れが死んでしまうことがあるからだ。本作も、視覚にとらわれず、心に感じた美しい形のリズムを大切にして描かれている。
【41】
「けいとう」
1992(平成4)年 72歳
大英博物館にある《アッシュールバニパル王の狩猟》という死にゆくライオンを表したレリーフが好きで長年、本物を見てみたいと願っていた。大英博物館に何度も行って、ようやく見ることができた時はとても嬉しかったという。その後、鶏頭を描いていた時に突然このレリーフのライオンが頭に浮かんできた。花がたて髪に見え、そのイメージを重ねて描いている。
【42】
「黎明」
1993(平成5)年 73歳
ロマネスク建築のモデナ大聖堂(イタリア)にある石像をヒントに描かれた。髪型は、フランスのシャルトル大聖堂の西正面、三つ編みの円柱人像からヒントを貰った。シャルトルの円柱人像は、とても髪が長かった。そこで、モデルに背筋を真っ直ぐにしてもらい、髪も真っ直ぐに描いたという。うすぎぬを通してみえる肌、ヨーロッパで見たロマネスクの彫刻など、石本の中世ヨーロッパへの夢がふんだんに取り入れられた作品だ。
【43】
「艶」
1995(平成7)年 75歳
モデルが初めてきたときの感動を円で構成した作品。まろやかに匂うように体から発散する表情は艶そのものであったという。絨毯の文様も円にして曲線の美を表現した。腕と体の長さが実際のものとは違っているが、彼女から受けた感動が自然にこのような形にさせてくれたという。
【44】
「罌粟(けし)」
1998(平成10)年 78歳
《画家のことば》
「15世紀のドイツにハンス・バルドゥング・グリーンという宗教画家がいた。彼の作品の中に、女は男を堕落させるから女に近づくなという絵がある。ある時、罌粟を見ていたら、罌粟の白い花が女に見えて、赤い花が男に見えてきた。白い花が男を堕落させて骸骨にする、そんな風に見えてきた。白い花と赤い花が、抱擁してキスをして足を絡めている。そして、男はやがて枯れていく…。」(『石本正 花の世界』2003年、浜田市立石正美術館)
【45】
「寂光」
1994(平成6)年 74歳
教壇に立っていた京都造形芸術大学(現京都芸術大学)の学生と一緒にデッサンした菊。小さな花だったが、彼にはすばらしく美しく、そして大きく見えた。この花を見ていて、以前見たウンベルト・エーコ原作の映画『薔薇の名前』のイメージが浮んだ。この映画の中の重苦しい雲の空、そして陰鬱な僧院を思いながら、二日で十枚のデッサンを仕上げた。それらのデッサンをもとに描いた。作品名は平家琵琶に謡われる耳無芳一の話に出てくる「寂光」からつけた。上部の赤い菊の花は平家の若宮の武者を、蕾の点々は雑兵を思い浮かべながら描かれている。
【46】
「アルバラシン」
1999(平成11)年 79歳
「ここはスペインの田舎町。山の中腹にトンネルがあって、崖の家からの見晴らしが素晴らしいところであった。」(『石本正 ロマネスク巡礼』2002年、浜田市立石正美術館)
中世ヨーロッパ美術を巡る旅の中で、彼は何十枚にも及ぶスケッチをしている。しかしそれをもとに描かれた本画作品は多くない。本作は彼や家族にとってもお気に入りの大切な絵で、最後まで手放さなかった作品のひとつだ。
【47】
「秘花」
1996(平成8)年 76歳
燭台の上にたくさんのろうそくが燃えている様子を思いながら描いた作品。それはまるで、多くの命が燃えているようだった。年老いて、やがて葉が散り、枯れてしまう寸前が美しい。はかない命をいとおしいと思う気持ちが描かせたものである。
【48】
【第5章】絵をかくよろこび
80歳を目前にした頃、ふるさと石見に想いを馳せるようになった。これまで何ものにもとらわれず、自由で独創的な絵を描き続けることができたのは、故郷の自然の中で遊び過ごした豊かな思い出や経験が根底にあると感じるようになったためだった。
2001(平成13)年に三隅町立石正美術館(現浜田市立石正美術館)が開館した。それ以降たびたび帰省するようになり、《蟠竜湖の女》(No.189)や《生命の樹に寄るカッチョ乙女》(No.195)のように、時を越え改めて向き合った故郷からインスピレーションを得た作品が描かれるようになった。
絵を描く体力を保つために日課としていた散歩の途中で見かけた樹や道端に咲く花など、これまで描かれたことのないモチーフも次々と作品になった。
「描きたいものが次から次へと湧き出てくる。忙しくてしかたない」と繰り返し口にし、大好きなクラシック音楽を聴きながら、同時に何枚ものパネルを並べて絵に向かった。自身の空想と戯れるような瑞々しくのびやかな表現は、90代とは思えないほど自由な心で描かれていた。
2015(平成27)年9月26日、画家・石本正は95歳で静かにこの世を去った。
主のいなくなったアトリエには、絶筆《舞妓》(No.200)とともに描きかけの作品が30点近く遺されていた。
【49】
「ぼっこう」
2000(平成12)年 80歳
石正美術館が開館する少し前、ふるさとから送られてきた「ぼっこう(カサゴ)」の大きな口をみて、その面白い形に彼はたちまち虜になった。魚が傷んでしまってもそのままアトリエで描き続け、数日で何十枚ものデッサンができた。「この口の中に入ったら楽しいだろうな」などと思いながら描いていたと話す。そしてぼっこうは、ふるさとが何もかも飲み込み、新しい文化を創って欲しいという願いを表した作品に生まれ変わった。
【50】
「蟠竜湖(ばんりゅうこ)の女」
2001(平成13)年 81歳
石本がうまれた町の隣にある、益田市の蟠竜湖が題材となった最初の作品で、石正美術館が開館した年に制作された。蟠竜湖はふるさと石見の象徴として郷里の風景に数多く登場する。子供の頃に遊びに行った思い出深い場所でもあるが、絵の中のそれは現実の湖そのものではなく、思い出から生み出された架空の湖だ。その思い出の湖を背景に立つ、美しい少女を描いた。画面右奥には鉛色の日本海が山の向こうからわずかに顔をのぞかせる。
【51】
「菊」
2004(平成16)年 84歳
2001(平成13)年、石本が敬愛する秋野不矩が亡くなった。彼にとって彼女は姉のようでもあり、母のようでもある存在だった。葬儀のあと、花の代金を支払うため訪れた花屋の店先で売られていた赤い小菊。その時の菊を思い出しながら、彼女の面影を重ねて二点の菊の絵を描いた。
【52】
「湖畔」
2004(平成16)年 84歳
秋野不矩の没後三年目に、彼女を追慕して描かれた作品のひとつ。湖の前に立つ女性が身につけているのは、秋野が好きだったインドのサリーのような着物。色も彼女好みの赤にしている。
【53】
コラム6 浜田市立石正美術館について
全国で唯一、石本正の画業の全容を見ることのできる美術館が、故郷の島根県浜田市三隅町にある。
設立のきっかけは1997(平成9年)、当時の三隅町に石本が作品を寄贈したいと申し出たことから始まる。それを受けて町は、日本画壇での石本の功績を顕彰するとともに、地域の芸術文化発展の拠点となる施設として美術館建設を決定、2001(平成13)年に開館した。
外観については「流行にとらわれない、個性的で特徴のある美しい建物」、「山々に取り囲まれた自然を生かし、日本の古い寺院、中世ヨーロッパの教会建築などを生かした親しみのある美術館」であって欲しいとの画家の思いを反映し、友人で建築家の京都大学名誉教授・金多潔(1930-)が設計した。開館に際し、石本は次の言葉を残している。
建物は僕の好きなイタリアのロマネスクをイメージして、教会のようになっている。屋根は石見地方特産の石州瓦を使用している。僕があこがれるのは、イタリア、モンテルキの共同墓地の小さなお堂にある、村人にひっそりと守られてきたピエロ・デルラ・フランチェスカの《懐妊の聖母》のように、訪れた人々に感動を与えられる美術館である。この美術館には僕の絵だけではなく、僕の絵に対する気持ちも一緒に収蔵してもらっている。(石本正「感動こそわが命」『石正美術館開館記念 石本正展』 2001年)
石本は石正美術館を通して「絵は技術ではなく、心で描くもの」だという考えを地方から全国へと発信したいと願っていた。「絵をかくよろこびを伝えたい」との思いから始まった石本正絵画教室も、「心からの感動によって描かれた本物の作品を見てほしい」と自らの目で作品を選定し、蒐集に携わった「心で描いた日本画展」(2008年)の開催も、彼の芸術文化に対する並々ならぬ思いの表れだった。
2015年に95歳で石本がこの世を去ったあとも、石正美術館では彼の精神と功績を全国、そして後世へと伝える取り組みが継続して行われている。
【54】
「萩」
2007(平成19)年 87歳
萩が落葉する直前、最後に様々な色の変化を見せたのち、誰の目にもとまらずひっそりと終わりを迎える様子の美しさを描いた作品。
【55】
「一緒に遠くえ行こう」
2012(平成24)年 92歳
晩年は擬人化された鳥や花で夫婦像が描かれ、人のぬくもりや愛情を表現した作品が多くみられる。当時、動物園にスケッチに行ってコンドルに夢中になった。三時の餌の時間だけ地面に降りて歩く。その脚の形が面白くて、通っていたのだった。コンドルのシリーズは全部で五点。コンドルのつがいの出合いから始まり、愛を育んでいく二羽の様子が描かれている。本作では、雄が「一緒に遠くえ行こう」とデートに誘っているところだろうか。
【56】
「月火美人」
2012(平成24)年 92歳
濃紺の星空から地表へ向かって落ちるかのように咲く月下美人。たった一夜しか咲かぬこの花の命を愛おしく思ったという。大気圏で燃え散る流星のようなはかなさも感じられるようだ。タイトルをつける際あえて「月火美人」としたのは、炎のような花びらの形から着想を得たからかもしれない。花から得た感動を、空想の中で戯れるように表現する石本らしさ溢れる作品だ。
【57】
「舞妓(未完)」
2015(平成27)年 95歳
最後まで手を入れ続けていた作品。制作途中で表面がひどく割れてしまい、一度修復に出した後も手を入れ続け、そのうち画面全体に照りが出てしまった。その後もしばらく描いていたが、やがてこの頃を境に絵を描かなくなったという。画面に残る筆跡が、最期まで絵に向かい続けた画家の姿を静かに物語る。