1920(大正9)年、島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町岡見)に生まれた石本正。95歳で逝去する前は石正美術館名誉館長をつとめる傍ら、自らによる絵画教室で絵を描く心とよろこびを伝え続けました。
石本正とはどのような画家であったのか、ここではその魅力ある人物像と画業についてご紹介します。


  

  

 

石本正の信念

“心”で描く。

日本画家・石本正が生涯の画業において大切にしたもの。
それは技術でも地位でもなく、絵を楽しむ心でした。

描きたいものを、心の向くままに。日本画家でありながら、日本画の「しきたり」を嫌い、時には油彩やパステルなども使い、とことん純粋に絵を楽しんでいた石本。
上辺の技術を超えた、描きたいという“心”によって絵筆を運んでいました。
そうして遺された作品の数々は、今も見る人の心を揺さぶり、石本のかけがえのない生きた証として保存・展示されています。

“絵描きには名前なんて要らないです。”

“本当に大切なのは、絶えず感動する気持ちを持ち続けて絵を描くことなんです。僕は、石本正という親から貰った名前をもっているけど、こんなものは今日限り捨ててもいい。僕にとって、名前なんてどうでもいいんです。絵を見る時は、作者の名前で判断しないで、作品そのものを見て欲しい。”
(石本正著「石本正 青春時代を語る」より抜粋)

 

 

石本と女性美


「裸婦立像」1979(昭和54)年

 

石本正にとって《女性》は聖なるもの、美しいものの象徴でした。

次のようなエピソードがあります。

終戦直後のある日。石本は電車の中で、目の前に座った若い母親が子どもに乳をふくませている様子を目にしました。このとき、豊かな乳房の間に蒼白い一本の線を感じて息をのんだといいます。
理屈から考えれば、影になるはずのこの箇所が、蒼白く光を放っているように見えたのでした。この発見の衝撃は彼の身体の中を貫き、その後、女体だけが発する神秘的な燐光として、裸婦の胸の間を白く描くようになりました。(左図「裸婦立像」)

石本は女性の透き通る肌に究極の美を見出し、その下の血液の流れにいたるまでリアルに、かつかげろうのようなほのかな雰囲気をもって表現しようとしていました。
それは今までの日本画にはなかった新しい試みであり、石本の画業における永遠のテーマとなりました。

 

“私はトコトンまで美しいものに賭けたい。”

裸婦という、一見するとデリケートな画題。

石本はそれを限りなく自然に、純粋な情熱をかけて挑んでいます。若い頃から、欠かすことなく描き続けたデッサン――それらは膨大な数にのぼり、没後遺されたアトリエからも、大量のデッサンが発見されました。
描いても描いても尽きる事のない、女性の美しさに対する彼の感動の心をうかがい知ることができます。コンテを使って輪郭を太く描いた印象的な初期の作品から、鉛筆の繊細な線と濃淡でやわらかな肌を表現した、色香ただよう壮年期のものまで、石本が生涯をかけて追い求め描き出した女性たち。

作風の変遷を経てなお、その肌のぬくもりや息遣いをも感じさせるような独特のリアリティにあふれています。


「裸婦」制作年不詳

「裸婦」1991(平成3)年

 


「天王の牡丹」1996(平成8)年

石本は、花を描いた作品も多く遺しています。

その中でも、牡丹や椿について「花が女性に見える」と語っていた石本。
彼の描く花は、必ずしも見たままの姿ではなく、目の前の花を通してその中にある女性の美しさや命の輝きを描こうとしました。

その石本が花の季節になると足繁くスケッチに通った「無二荘牡丹園」(京都市)の牡丹は、現在石正美術館の「華晴苑」に一部の株が移植されています。この中には当時石本が実際スケッチした株も含まれ、往年の画家を偲ぶように毎年大輪の花を咲かせています。

 

 

 

”私の舞妓”

1940年、石本は京都市立絵画専門学校日本画予科に入学します。それからはアトリエを京都に構え、当石正美術館ができるまで故郷に帰ることは殆どありませんでした。

そして石本芸術を語る上で、欠かすことのできない画題のひとつとなったのが「舞妓」です。

「舞妓」と聞くと、純日本的なイメージと共に、美しい着物やかんざし、白粉で化粧した真白い顔などの浮世離れした装飾美を思い浮かべる方も多いかもしれません。

しかし彼が初期に描いた舞妓は、華やかなイメージとは対象的でした。舞妓に観音像の姿を重ねたというそれは、彼女たちの心情、とくに寂しさやあどけなさを匂わせる物憂げな表情に満ちています。
石本と親交のあった川端康成は、「石本観音」と呼び親しんだといいます。


「舞妓」1968(昭和43)年

 


「横臥舞妓」1959(昭和34)年

「舞妓(夏の終わり)」1974(昭和46)年

 

1959(昭和34)年。このとき発表された「横臥舞妓」(左図)は、当時大きな話題となりました。
簡略化された素朴な顔立ちの舞妓は、まるで土から生まれ出でたかのような太くて荒い輪郭線で縁取られ、しかももろ肌を見せていたのです。

……“ぼくの描こうとしている舞妓は、いま目の前にいる彼女ではない。実在している彼女を通して、ぼくは自分のイメージの中でのみ生きている舞妓を描く。描くというよりも必死でその姿なき像を追求する。(中略)美しくはなやかな外相の奥にある舞妓のいのちといったものを、ぼくは描き出そうとする。”……
(1968(昭和43)年1月5日 毎日新聞)

かつての遊女と違い、芸事で身を立てる芸妓や舞妓はけっして客の前で肌は見せません。
これまで画題として親しまれてきた、人形のように美しく着飾った舞妓像とは一線を画す斬新な表現。当然ながら、賛否両論を巻き起こす事態となりました。
しかし石本は、世間の評価に気を留めることなく、自己の感動と信念を大切にしてその後も発表し続けました。

華やかさの内に哀愁を漂わせた舞妓作品は、多くの人々の心を捉えることとなりました。

 
 

全ての賞を辞退

1971年、“在来日本画の常識を破る人体のリアリティーの追求により、日本画における裸婦の表現に一エポックを画した”として第21回芸術選奨文部大臣賞、更に第3回日本芸術大賞を受賞しました。しかし石本はそれ以降全ての賞を辞退しています。

“名声はどうでもいい。感動を受け、絵を描くことが僕の人生だから。それ以外のことは何にも考えない。”

 

憧れのロマネスク

石本は、若い頃から中世ヨーロッパの美術に関心を寄せていました。
中でも石本の心をとらえてやまなかったのが、ロマネスク美術でした。

太い線に簡略化された形。ルネサンス以降の写実的で華やかな絵画とは異なる、素朴かつ生命感溢れる表現に強い憧れを抱いた若き石本は、ロマネスクの画集に取材した一連の作品を発表します。それは当時新制作協会展において大変高い評価を受け、3年連続で新作家賞を受賞しました。(右図「女」1953年)
しかしその一方で、次第にこれらの作品に対し「画集に寄りかかりすぎていた」と考えるようになり、その後は同じ画風で描くことを止め、これらの作品はこの美術館ができるまで倉庫にしまわれることになりました。

表現が直接反映されることはなくなりましたが、その後の画業においても中世ヨーロッパ美術がもたらす感動は彼に多大な影響を与え続けることとなります。


「女」1953(昭和28)年

ヨーロッパ美術の旅

石本が憧れの地・ヨーロッパに初めて訪れたのは1964(昭和39)年、44歳の時でした。イタリアの主要都市を訪れ、そこで本物の中世のフレスコ画(※)に出会います。
細部を簡略化した素朴な表現で生き生きと描かれたこれらの絵画は、当時の画家たちの強い意志が感じられるものでした。さらに石本にとって、この文化にじかに触れることは、これからの日本美術を考えるうえで非常に大切なことのように思えたのでした。

そして5年後の1969年から、当時講師を務めていた京都市立芸術大学の教え子ら数十人とともにヨーロッパ各地をめぐる美術の旅に出るようになります。この旅は、1990年までの20年間で9回も行われました。

一行は現地でバスを貸切り、移動の先々でスケッチをしながら、最長81日間、約6,050kmにおよぶ行程を旅したのでした。

※フレスコ画…壁に塗った漆喰が生乾きのうちに水性の絵具で描き、絵具がしみこみながら漆喰と共に固まるのを応用した技法。光沢のないざらっとした表面で、絵具の発色が日本画と似ている。

教え子と一緒とはいえ、現地で技術的な指導などは一切しなかった石本。

気に入った場所を見つけると、誰よりも先に駆け寄り夢中で描き始めたといいます。はじめは困惑していた教え子たちも、心から楽しそうに描いている彼の姿に刺激され、ひたすら写生に打ち込みました。

「現場で描き、ホテルで直し、百十枚程描いたろうか。ついには持っていった紙が足りなくなって、イタリアの画材屋に仕入れにいったくらいだ。とにかく集中して描けるのは絵を描くのが本当に面白いからだ。面白くて面白くて仕方ない」
(石本正「我がイタリア」新潮社より)

現地で描かれたスケッチの一枚一枚からは、憧れだった本物の文化に触れられた感動と、溢れんばかりの“絵を描くよろこび”が伝わってくるようです。

こうして20年の間で、全9回の「ヨーロッパ美術の旅」で石本一行が廻った国の数は、イタリア、フランス、スペインなど、10か国以上にのぼりました。
中でも石本はイタリアを気に入り、計7回も訪れています。大きな街から通常の観光では訪れないような小さな村まで、国内隅々まで足を運び、イタリアの美術文化を堪能したといいます。


「シエナ」1990(平成2)年

「聖母子像」1980(昭和55)年

 

塔の天井画制作

2001年4月、故郷である島根県浜田市三隅町に、石本正の作品を収蔵展示する石正美術館ができました。
自身が愛した中世イタリアの教会をモデルに回廊や塔を配し設計された美術館の完成を石本は大変喜びました。

そしてある時、美術館入り口にある高さ14mの塔の最上階に、地域住民と協力した《天井画》を制作することを提案します。

故郷に「本物の文化」を

ヨーロッパの旅で田舎の村を巡り、地元住民によって大切に守り継がれているロマネスク美術を目にしていた石本。
かつてのヨーロッパでは、石造りの建物を建造する際、時には領主も一緒になって石を引っ張り、石積みをしたといいます。そうして地域の皆で力を合わせて作られた建物が、今も変わらず日常生活の中に溶け込み大切にされている…、石本はそれを「本物の文化」ととらえ、石正美術館においても天井画を新たな文化として残したいと考えたのでした。

857名による天井画制作


金箔貼りの様子

 

2008年春、本格的に天井画の制作が始まります。
描くモチーフは「夏の藤棚」。青く茂った葉の間から金色の木漏れ日が覗くという、石本が地元の大麻山神社で見た藤棚からの構想でした。

下絵の段階から、約50人の地域住民が参加し、実物の1/4の天井の型に金箔が貼られました。その箔の上から、石本が日本画の絵の具やパステル、木炭、鉛筆を使って、下から見上げた藤棚の絵を一気に描き上げました。

 

“絵を描くのは遊びなんや。頑張らんでやってほしい。”

“自分の描いた下絵はあるが、それに囚われることなく、参加する一人一人が自分の心で藤を描いて欲しい。楽しく描くことが一番なのでそのことを心がけてもらいたい。画面のどこかに昆虫がいても面白いと思う。自分の気持で自由に描くのがいい。絵を描くのは遊びなんや。頑張らんでやって欲しい。”
(石本正「石見美術第8号」2011年 より)

自由に、楽しく、人々が協力して絵を描き受け継いでいく、まさに文化を一から作り上げるという、石本にとっても画業の集大成となる一大プロジェクトとなりました。

 

同年8月25日。この日から地域住民をはじめ石本の教え子の画家や、当時客員教授をしていた京都造形芸術大学の大学院生も加わり、全4期に渡る天井画制作がスタートします。

塔の最上階に足場を組み、参加者たちは思い思いに葉を描き、空の色となる金箔を貼り、全身絵の具まみれになりながらも、皆笑顔で「描くよろこび」を分かち合いました。地元の大人はもちろん、部活の合間にやってきた中学生や、石本の絵画教室に参加した小学生、遠路はるばる描きにやってきた人、さらには報道関係者まで一緒になって作業しました。
一人の絵筆が加わるにつれ、刻々と変化していく天井画。こうして制作期間2年、述べ857名にのぼる参加者の手で、夢の天井画は誕生しました。

天井画の完成

天井画の大部分が完成し、いよいよ自らが最後の絵筆を入れるため、石本は京都のアトリエから再び故郷へ帰ってきました。

制作現場にはその最後の絵筆が入る瞬間を見守ろうと、学芸員や報道関係者など多くの人が集まり、石本の到着を待っていました。
しかし現場で絵を見た石本は、「これでいい。自分は手を入れる必要はない」と言い、筆を入れることはしませんでした。

「本当にいいよ。本当にやってよかったな。おおきに」

嬉しそうに天井画を見上げる石本。自分の筆が入ることで、制作に関わった一人一人の存在が薄れてしまうことを嫌った、彼らしい完成の瞬間でした。

金箔の貼られた天井画はまさに、藤の葉の間から覗く空のように、季節や天候、時刻、見る位置により様々な変化を見せます。また、自由な心で描かれたカマキリや蝶など、今でも思わぬ発見をすることができます。

石本が願った、故郷の新しい「本物の文化」。現在も石正美術館で大切に保存され、受け継がれています。
(通常非公開、観覧には申請と職員の同行が必要。料金は無料。)

 

95年の生涯

 

1920(大正9)年
7月3日、島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町岡見)に生まれる。
1940(昭和15)年 20歳
京都市立絵画専門学校日本画科予科入学。同級生に三上誠らがいた。
1943(昭和18)年 23歳
学徒動員により招集。その後、気象第1連隊に配属となり翌年中国へ渡る。
1944(昭和19)年 24歳
京都市立絵画専門学校日本画科本科を半年間繰上げ卒業。
1945(昭和20)年 25歳
8月15日、気象観測の受信機で終戦の玉音放送を聞く。
翌年復員。その後しばらくして京都へ戻り本格的に創作活動に入る。
1947(昭和22)年 27歳
文部省「第3回日本美術展覧会」に《三人の少女》が初入選。この時福田平八郎氏が激賞する。
1948(昭和23)年 28歳
「第4回京都市美術展」に《風景》を出品し、京展賞第一席を受賞。京都市美術館買上げとなる。
文部省「第4回日本美術展覧会」に《少女(野辺に)》を出品。
1949(昭和24)年 29歳
京都市立美術専門学校(※1)助手となる。
「第5回日本美術展覧会」に《馬》を出品。
1950(昭和25)年 30歳
京都市立美術大学(※2)助手となる。
当時京都市立美術大学助教授だった秋野不矩氏の勧めにより、「第3回創造美術展」に《五条坂》《踊子》を出品し初入選する。
1951(昭和26)年 31歳
創造美術と新制作派協会が合同し、新制作協会として発足。
「第15回新制作展」に《影》《旅へのいざない》を出品し、新作家賞を受賞。新制作協会の会友に推挙される。
1952(昭和27)年 32歳
アメリカ大使館主催の「サロン・ド・プランタン展」に《清水坂》(※《五条坂》(1950年)のことか)を出品し、第一席賞を受賞。
1953(昭和28)年 33歳
「第17回新制作協会展」に《高原》《女》を出品し、新作家賞を受賞。
1954(昭和29)年 34歳
「第18回新制作協会展」に《母子》《髪》を出品し、新作家賞を受賞。
1955(昭和30)年 35歳
「第19回新制作協会展」に《女》《母娘》を出品し、新作家賞を受賞。
1956(昭和31)年 36歳
「第20回新制作協会展」に《双鶴》《野鳥》を出品。新制作協会の会員に推挙される。
1958(昭和33)年 38歳
はじめての個展(京都・撰美堂画廊)を開催
1959(昭和34)年 39歳
石本正・加山又造・横山操を会員とする轟会(村越画廊)が発足。大作を発表する研究会的な展覧会として話題となり、特に《横臥舞妓》が注目を浴びる。同会は毎年開催され、石本は第15回展まで出品した。
1960(昭和35)年 40歳
東京国立近代美術館主催の「日本画の新世代展」の出品者に選ばれ、《桃花鳥》を出品する。(同年開催の村越画廊・弥生画廊主催の新作個展に出品後、翌年文部省買い上げとなる(東京国立近代美術館蔵)。
京都市立芸術大学講師となる。
1964(昭和39)年 44歳
はじめてイタリアに取材旅行に行き、憧れつづけた数々のロマネスク期のフレスコ画の素晴らしさに衝撃を受ける。
1966(昭和41)年 46歳
京都市立美術大学助教授となる。
1967(昭和42)年 47歳
「現代日本画鬼才三人(石本正・加山又造・横山操)展」(毎日新聞社主催、そごう神戸展)が開催され、《飛騨の酒倉》《早春賦》などを出品。
1968(昭和43)年 48歳
現代作家シリーズ第2回石本正風景画展・古い日本の風景(銀座・彩壺堂サロン)
1969(昭和44)年 49歳
学生や卒業生とともに62日間のヨーロッパ美術研修旅行に行く。外国語のガイドブックや画集など多くの資料に目を通し、一人で綿密に旅行計画を練り上げた。以降、この旅行は1989(平成元)年まで計11回に渡り行われた。
1970(昭和45)年 50歳
石本正人物画展(銀座・彩壺堂サロン)
京都市立芸術大学教授となる。
1971(昭和46)年 51歳
3月19日、前年の個展で発表された《横臥舞妓》などに対し、第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を贈られる。
3月24日、内的世界を画面に確立した舞妓裸婦や風景作品などが評価され、第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を贈られる。特に審査員の一人であった川端康成がこの受賞を推したとされる。
以後、全ての賞を辞退。
1972(昭和47)年 52歳
石本正人物画展(銀座・彩壺堂サロン)。この時の発表作品のうち《踊子》や《二人の踊子》などの作品が、同年4月に逝去した川端康成の文学に登場する女性像を彷彿とさせると話題になる。
1973(昭和48)年 53歳
1~12月 芸術新潮に『画家のことば』を連載。
1974(昭和49)年 54歳
京都・西安両市の友好使節団として西安・北京を訪問。
新制作協会日本画部会員37名全員が退会し、新たに「創画会」を結成。行動を共にする。
1976(昭和51)年 56歳
石本正作品展(東京セントラル絵画館)。女性像の華麗さに厚みが加わったと評される。(梅原猛『石本正の裸婦』〈芸術新潮〉第28巻第1号、1977年1月)による。
1979(昭和54)年 59歳
石本正裸婦展(東京セントラル美術館)
梅原猛氏ら美術関係者とともに中国へ写生旅行。
1982(昭和57)年 62歳
インドに写生旅行。とくにカジュラホの寺院群遺跡の壁一面に彫られた男女神の交合像(ミトゥナ像)の女神たちの見事な曲線を見て「これは絵になる、描き方がわかったと思った」という。カジュラホには、2年後にもう一度訪れる。
1983(昭和58)年 63歳
石本正作品展(東京セントラル美術館)
1986(昭和61)年 66歳
京都市立芸術大学を退職。同大学名誉教授となる。
京都芸術短期大学客員教授となる。
1987(昭和62)年 67歳
石本正人物展(兼素洞)
1989(昭和64)年 69歳
「石本正 花展」(兼素洞)新聞において「花のいのちの哀切な美しさをとらえた」「女体美に限りない目を向けてきた石本の露をすって開いた花々」などと報じられる。
1991(平成3)年 71歳
京都造形芸術大学開学。同校教授となる。
1996(平成8)年 76歳
「石本正展-聖なる視線のかなたに-」(朝日新聞社主催)が東京・京都・大阪・下関・松江で開催される。
浜田市世界子ども美術館名誉館長となる。
1997年(平成9) 77歳
島根県那賀郡三隅町に作品寄贈を申し出、三隅町が絵画の寄贈受諾と美術館建設の意向を表明。
2001(平成13)年 81歳
京都造形芸術大学客員特任教授となる。
三隅町立石正美術館(2005(平成17)年より浜田市立石正美術館)が開館し、同館名誉館長となる。
「石正美術館開館記念 石本正展」(朝日新聞社主催)が東京、福岡、京都、三隅で開催される。
2003年(平成15) 83歳
石本がこれまでの画家生活で、はっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来(あした)」展(浜田市世界こども美術館)を開催。「文化は流行ではなく、心や気持ちが一番大事だということを浜田から全国に発信して欲しい」という画家の願いを受け、浜田市が作品を買上げ実現した。
2004(平成16)年 84歳
「石本正 花の夢」展(天竜市立秋野不矩美術館、浜田市立石正美術館)
2005(平成17)年 85歳
「石本正展」(箱根・芦ノ湖成川美術館)開催
2006(平成18)年 86歳
「思い遥かに 石本正展」が東京・京都・名古屋・横浜の高島屋ならびに石正美術館で開催される。
2007(平成19)年 87歳
初の自選展「石本正自選展 感動こそ我が命」(浜田市立石正美術館)開催。
2008(平成20)年 88歳
「石本正米寿記念 心で描いた日本画展」開催。(一畑百貨店(松江)、浜松市美術館、京都造形芸術大学、石正美術館)
2009(平成21)年 89歳
石正美術館に、塔天井画完成。(石本の発案による一般市民参加型の事業)
京都中央信用金庫創立70周年・石本正画業70周年記念「石本正展」(中信美術館)開催。以降、2015年まで毎年新作展を中信美術館で開催。
2010(平成22)年 90歳
浜田市立石正美術館に新館オープン。
「石本正卒壽記念 今伝えたい思い」展 開催。
2013(平成25)年 93歳
平成25年度川端康成生誕月記念企画「日本画家 石本正展 -川端康成が惹かれた美-」開催(茨木市立川端康成文学館)
2015(平成27)年 95歳
9月26日、不整脈による心停止により逝去。
2016(平成28)年
没後一年回顧展「石本正 魂の軌跡」(浜田市立石正美術館)開催。

(※1)1945年(昭和20)、京都市立美術専門学校に改称
(※2)1950年(昭和25)、京都市立美術大学創立。
(※3)1969年(昭和44)、京都市立芸術大学創立。
・年齢の表記は満年齢を採用した。